こんにちは、こんばんは。
どどりです。
今、2024年の12月です。
頑張って、2023年4月に書こうとした形跡がありますが、そこから筆を折り、停滞し、あらためて書き出し、そして今になってました。
とっくに一年を通り過ぎた今、このアルバムの記事を出すことに、不思議な思いがあります。
なんとかがんばります。
補足:最近アイコンを変えてみました。
目次
- 【アルバム情報について】:このアルバムを考察するのはエグイ
- 【アルバムの進め方】:論文などの文献を手掛かりに、原作と楽曲を考察す
- 【夏の肖像】 :なぜ、画家が主人公となったか、次元はなにか
- 【都落ち】:穂積皇子に代理して但馬皇女へ贈る、ヨルシカの幻想的な返歌
- 【ブレーメン】:別記事の、グリム童話が隠した「骨」の印象が強すぎる
- 【チノカテ】:あの絵にはなぜ麦が描かれているのか、それはジイドから
- 【雪国】:川端康成の文学においての、「鏡写し」による芸術表現
- 【月に吠える】:疾患さえも昇華させる、底知れぬ幻想創作の朔太郎
- 【451】:ブラッドベリが暗に示した、「燃やす」の見えない意図
- 【パドドゥ】:ロティの物語を華やかな「雅宴画」世界へ創作変容させた芥川
- 【又三郎】:宮沢賢治が創作変化させた風の子を、模倣のように現在で創作したヨルシカ
- 【靴の花火】:みにくいとよだかに自己投影した作者と、星へ成る転生表現
- 【老人と海】:ヘミングウェイが創作に隠した、沈むまいとする老「月」と幼い「太陽」
- 【さよならモルテン】:ラーゲルレーヴの描いたある姉弟へヨルシカが伸ばした手
- 【いさな】:神に相違ない白い幻想を創作し描き続けたメルヴィル
- 【左右盲】:有用性の奴隷でない「美」こそを求めたワイルドの創作
- 【アルジャーノン】:キイスが暗に示した、ゴールの見えぬ迷路を表現した輪廻
- 【さいごに】:解放感はひとしお
こちらがWEB特設サイトですね。ここから各楽曲の配信サイトにも飛べたりします。
そして、みなさんお分かりですか。
今回の『幻燈』では、特設サイトでの楽曲解説がありません。これまで『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』『盗作』といったアルバムでは、楽曲解説が文章として掲載されていたのですが、今回は異なる形が取られています。楽曲解説については特設サイトではなく、Spotifyのプレイリストで丁寧に取り上げられており、そちらで情報を収集する形になるようです。の媒体もありますが、「プレイリストで聴ける」という形式が新鮮に感じられました。
実は、Spotifyのプレイリストで楽曲解説を聴くのは僕にとって初めてではありません。以前、クレナズムさんが『touch the figure』というEPを出した際に利用していました。あれも良かったです。解説を聴く前後で楽曲を楽しむ流れが自然で、聴いていて飽きることがないんですね。するすると流れるように楽しめます。
さらに、こういった音声形式での解説は、クリエイターの声を加工せずそのまま聴けるのが魅力だと思います。クリエイターの言葉が第三者によって「解釈」されることなく、ダイレクトに届くので、その意味をストレートに受け取れるのがいいなと感じています。
興味がある方は、ぜひ一度聴いてみてくださいね。楽曲の解釈を深く知りたいという方にとって、このプレイリストを外すのはナンセンスかなと僕は思います。
今回、『幻燈』についてレビューしているブログはほとんど見当たりませんでした。
そのため、僕のブログではプレイリストのリンクを貼っておくだけにします。ただし、楽曲によっては、以前配信リリースされた際に僕がレビューを書いたものがあります。これらも載せつつ、若干意味合いが変わった部分があれば補足を加えるなどして更新していこうと思います。
今回の『幻燈』というアルバムは、原作となる文献や小説をもとに楽曲が制作されています。そのため、各楽曲の背景を理解するには、それぞれの原作を読むことが重要です。そして、原作の内容を掘り下げるために、関連する論文や解説を参考にすることで、物語の「イイタイコト」を捉え、それをヨルシカの楽曲に照らし合わせて意図を読み解いていこうと思います。
このプロセスを通じて、自分なりの解釈を構築し、アルバム『幻燈』は、テーマ性があり有機的につながった楽曲群である「喩」えようと考えています。つまり、たくさんの本を読んで知識を深め、その学びをもとに記事を書くという、単純でありながら時間のかかる試みをしようということです。しかし、このアプローチにより、『幻燈』の楽曲たちをより深く理解する鍵になると信じています。
はい、一曲目は「夏の肖像」です。
そうでした、一曲目の「夏の肖像」は配信リリースされていないため、現時点で直接聴くことができません(ちなみに、なぜかポーチの画像を貼ってみました)。今回の『幻燈』では、画集を購入しないと聴けない特別なつくりになっています。そのため、いつものように楽曲を埋め込んで紹介する形式が取れない部分もあり、埋め込みが可能なものとそうでないものが混在する形となります。ご理解いただければ幸いです。
また、ちょうど『月猫』のライブ映像がYouTubeで配信を開始したタイミングですので、その映像を載せる箇所もあります。視覚的な情報を交えながら、記事をより楽しんでいただけるよう工夫していきたいと思います。
「夏の肖像」は、『幻燈』の中でも特にユニークな楽曲です。この曲は、画集を購入しなければ聴くことができないという限定的な構造を持っています。そのため、通常の楽曲レビューとは異なり、音楽そのものだけでなく、ビジュアルや物語的な文脈を含めて解釈を広げる必要があります。この特性が『幻燈』全体のテーマとどのようにリンクしているのか、さらに深掘りしていきたいと思います。
この絵について感じたことを整理します。この作品では、中央に描かれた女性と、下部に描かれた人の影が対照的に配置されています。この影は、おそらく主人公である画家の男性を象徴しているのではないかと感じました。全体の色調は夕暮れを思わせる赤とピンクのグラデーションが印象的で、歌詞に「夕焼け」と明言されていることからも、この時間帯が選ばれていると考えられます。背景に広がる風景は森林公園のようにも見え、二人が木漏れ日の中を歩いているような情景が思い浮かびます。この描写が楽曲の持つノスタルジックで幻想的な雰囲気と調和しているように感じられます。
特に、この「夏の肖像」はアルバムの最初の1曲目であるため、全体の構成においてどのような意味を持つのかは、他の楽曲を含めて一通り解釈し終えた後に明確になるのかもしれません。現時点ではその全体像をつかむことが難しく、まだはっきりとした結論には至っていません。
では、次に進みましょう。
まだレビューの始めではありますが、この絵が描いているのは、主人公である画家自身の過去を指しているのではないかなと思いました。のちほどピックアップする、MV「左右盲」や「チノカテ」に見られる男女の物語が、この解釈の鍵を握っているように思えます。これらの楽曲に共通して浮かび上がる視点は、男性=画家にあると捉えています。この画家というキャラクターの存在感は、MVで男性が絵を描く描写からも明確です。
さらに、『幻燈』というアルバムが発表されるずっと前、「又三郎」以降のティザー画像が絵画調で表現されていたことや、「老人と海」のティザーでは絵画そのものが使用されていたことも、この説を裏付ける要素といえるでしょう。
このような背景から、2021年ごろの僕は今回の主人公は「画家」であるという解釈を提唱しています。
まあ、このブログを書いているときにはもう画家でしたとしかいえませんね。
次のヨルシカのアルバムは画家の話かもなあ。
— どどり@音楽ブロガー (@eMmq709ZuLaOvEf) August 17, 2021
次の楽曲は「都落ち」です。
よし、ここから本気を出しましょう。
この曲は、コンプレッサーのような処理が施された単音が際立つ音作りが特徴的で、どこか日本の和の音楽を思わせる印象を受けました。音だけでなく、歌い方にも風情が感じられ、全体的に独特な雰囲気が漂っています。まるで古き良き日本の情景が浮かび上がるような楽曲です。
ヨルシカの楽曲にはストーリーが込められているものが多いですが、この楽曲もその一つですね。楽曲の一番では船でどこかへ向かう前夜の描写があり、二番では朝を迎えた離別の瞬間、三番では船が進み夜になった場面が描かれていると解釈しました。この流れの中に、時間の移り変わりや感情の変化が感じられます。また、この楽曲には和歌の表現が含まれているそうですが、正直なところ僕には詳しくわからないので、その部分には触れずにおきます。
さて、「都落ち」について最初は、平家物語のことかなと思ったり、万葉集の歌だと言われてもピンと来なかったりしていました。でも調べを進めるうちに、自分がいかに思い込みで解釈していたかに気づき、ちょっと恥ずかしくなりました。それでも、この背景を深く知ることで、より楽曲の魅力が見えてきたように感じています。これからも頑張ります。
まず、ヨルシカの「都落ち」という楽曲のモチーフになっているのは、万葉集第2巻の116番の歌です
万葉集第2巻 116番
「人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る」
訳:世間の口が激しく、怖いので、生まれてこのかた渡ったことがなかったのですが(世間に知れたからには)、朝この川を渡ります。(あなたに逢いに)
引用 https://manyoshu-japan.com/13462/
はっきり言いますが、この116番だけを読んでも、正直まったく意味がわかりません。というのも、この歌は114番と115番との関連性を踏まえて解釈しないと、本来の意味が見えてこないのです。要するに、この3首の歌にはつながりがあるわけです。そして、この3首は但馬皇女が詠んだものとされており(諸説ありますが)、その中には但馬皇女と穂積皇子の関係が反映されているのです。
万葉集第2巻 114番
「秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも」
訳:秋の田の風になびいていっせいに穂先が同じ方向に向くように私もあなたになびきたい、たとえ世間の口がうるさくても。
引用 https://manyoshu-japan.com/13464/
万葉集第2巻 115番
「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背」
訳:家にじっとしていて、恋い慕ってなどいないで追いかけていこう。だから、道の曲がり角毎に目印の標を結んでおいてね、あなた。
引用 https://manyoshu-japan.com/13463/
但馬皇女さんは高市皇子(たけちのみこ)さんとすでに結婚していましたが、それでも穂積皇子に恋心を抱いていたんですね。114番では、穂積皇子への想いを表現するために「穂」という言葉が使われているようです。そして、115番は、穂積皇子が志賀の山寺に向かうことになったときの状況を背景に詠まれた歌だと解釈されています。
志賀の山寺と聞くと、なんとなく田舎の山奥にある寂しい寺に配属されたような印象を受けますが、実際にはそうではありません。
この寺は、後に十大寺として延暦17年に定められた10の官寺の一つとなるほど由緒正しい場所です。
むしろ格式高い寺院であることがわかります。現代で例えるなら、何らかの事情で県外に単身赴任や異動を命じられるような状況に近いのではないでしょうか。
Googleマップで位置を確認してみると、確かに結構離れていることがわかりました。
この流れがあって、116番の歌へとつながるわけです。
そこで116番の解釈です。ネット上では116番の読み方や解釈がいくつか示されており、それらを大いに参考にしました。上の部分で紹介した訳もありますが、あれはおそらく誤りだと思います。なぜなら、一部の解釈では「但馬皇女が人に見られないよう早朝に船に乗って穂積皇子に会いに行く」というものがありましたが、この説には矛盾があるからです。もしそうなら、116番以降にもその続きが描かれるはずですが、117番はまったく別の歌であり、詠んだ人物も異なっています。つまり、114番から116番までの流れは、116番で完結していると考えられます。
僕の解釈では、116番の意味はこうです。但馬皇女は夜の間、穂積皇子と一緒に過ごしていました。しかし、これ以上世間の噂に耐えられないため、朝には川を下って都に戻ることを決意した。その心情がこの歌に表現されているのだと思います。
ここで、「朝川渡る」についてはこのような解釈をされてますので取り上げます。
(小島恵子 湘南短期大学紀要 十八、二一‐三三、二〇〇七)
P28
男が女の許に行くための「川渡り」が圧倒的に多い。…多くの場合、川を渡ることが恋の成就と関連することは、確かであると思う。
P28
女性の川渡りが、非常に少ないこともまた明らかである。恋の成就をめざす渡河は、原則として男の行為であったと言えよう。
P29
「朝」についての解説は、…「男女が逢って別れる時である」と指摘する。万葉集の歌における「朝」は、夜が終わって昼の始まる時であり、また「夕」は昼が終わって夜が始まる時である。恋人たちの時間である夜が終わるときが「朝」ならば「朝川渡る」をう逢瀬の帰路とする解釈は、整合性の高いものと言えよう。
P31
逢瀬が発覚して後の終息。激しく燃える恋は、多くの「人言」を招き、皇女は、朝の川を渡って行く。…まるで恋の挫折をうたうかのようなこの歌は、それにもかかわらず美しいと思う。この歌の美しさは、こういった状況を悔いることなく、頭を挙げて受け入れているかのような皇女の潔さが、この飾り気のない終止形の「渡る」に表れているからではないだろうか。
しかし、ここで重要なのは、但馬皇女がこの歌の通りに志賀の山寺に実際に行ったわけではないという点です。この歌では、現実の行動というよりも、歌の世界での幻想が表現されています。要は、「創作」したものです。そのため、但馬皇女はあくまで飛鳥浄御原宮に留まっているという解釈になります。
これを踏まえ、ヨルシカの「都落ち」の解釈に移ります。この楽曲は、但馬皇女の視点ではなく、穂積皇子の視点を主人公が取っているのではないかと考えます。穂積皇子が飛鳥から川を渡り、但馬皇女との別れを迎える様子を描写しているように感じました。この情景は、一緒に過ごした女性との別れを穂積皇子自身がどう受け止めたのかを表現しているように思えます。
となると、このヨルシカの「都落ち」という楽曲は、万葉集第2巻116番に対する返歌のような意味合いを持つと解釈することができます。つまり、ヨルシカは、穂積皇子の立場からアンサーソングを創作したということだと僕は思いました。
趣がありますねー。
今回「ブレーメン」のレビューを書くのは初めてになります。
この楽曲は、何よりもMVの印象が強烈で、当時さまざまな解釈が飛び交っていたのをよく覚えています。MV自体が多くの視点を引き出すようなつくりになっていて、楽曲と映像の両方で深い余韻を残す作品だと思いました。
楽曲については、裏拍が特徴的で、明るい印象を感じさせつつも、歌詞にはどこか卑屈さを漂わせています。このギャップがとても魅力的で、聴くたびに新たな意味や深みを感じ取れる一曲です。
それでは、アルバム『幻燈』に収録されている「ブレーメン」という楽曲について、あれこれ考えてみます。まずは、他の人のブログも読んでみてください。
ここからも分かりますが、『ブレーメン』に登場する4匹の動物は、目前に「死」を突き付けられた境遇に置かれています。このテーマは楽曲の歌詞にも現れていますね。「死ぬほどのことはこの世には無いぜ」というフレーズがそれを象徴しています。
これをアルバム『幻燈』全体に落とし込むと、「死」を意識した人の嘲りや諦めに似た心情がこの楽曲に込められているように感じます。この視点に立って楽曲を解釈し、そういう目線で聴いてみると、新たな面白さが見えてくるかもしれません。
また、「二人だけのマーチ」という歌詞には、どこか既視感を覚えました。それが似ていると感じたのは、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』に収録されている「パレード」という楽曲です。「パレード」は静かな印象の楽曲ですが、MVや『月光再演』での映像には、死後の世界を思わせる幻想的な雰囲気がありました。この感覚が『ブレーメン』からも漂ってくるように感じるのです。ただし、「パレード」と「マーチ」には微妙な違いがあります。「パレード」は一人語りのような印象である一方、「マーチ」は二人の会話のように感じられるのではないでしょうか。その違いが楽曲に与えるニュアンスの違いとして表現されているのが興味深いです。
あと「ルバート」との関係はまた書き足しますかもしれません。