ヨルシカ音楽画集「幻燈」今日から全曲配信になりました。
— Ryu Kato 加藤隆 (@ryukatoo) July 1, 2026
ディスク2を含め全25曲、ぜひお聴きしていただけたらと思います。 pic.twitter.com/vKiKuYsLAx
次に取り上げるのは「パドドゥ」です。
この楽曲は芥川龍之介の短編小説『舞踏会』をもとに作られたとされています。
『舞踏会』は短い作品で、さっと読むことができるのですが、
どの部分が「パドドゥ」とリンクしているのか一見ではつかみにくい印象を受けました。
そこで今回は、小説の表面的な読解に留まらず、
論文や批評などを通じて『舞踏会』を深く掘り下げ、
その関連性を探っていきたいと思います。
芥川龍之介作「舞踏会」考證 : ピエル・ロティ作「江戸の舞踏会」(Un Bal á Yeddo)との比較
大西忠雄
https://opac.tenri-u.ac.jp/repo/repository/metadata/363
P2
察する処芥川もこのロティの印象記を一読して、少なからぬ興味を覚えた読者の一人であつたに相違ない。そしてゆくりなくもありし日本の鹿鳴館時代への郷愁を唆られ、一遍の創作に託して、この活々とした開花の風俗絵巻を伝へておかうとの想ひにかられたものとも想像されるのである。
P3
因みに右二作を読比べて先づ感ずるのは、要するに芥川が如何に換骨脱胎の妙を極めてゐるかといふことである。
P13
元より芥川の「舞踏会」がロティの真実の面影を伝へてゐないことは、今更くり返すまでもないが、仮りに芥川が真実のロティを小説に描かうとした所で、この様なロティの姿を充分な客観性を以て、作中に躍動せしめることは。恐らく至難の業であつたらう。
芥川の『舞踏会』は、ロティが書いた『江戸の舞踏会』をもとに「創作」された作品といえます。
しかし、
それは単なる翻案ではなく、
原作の現実をそのまま描くのではなく、
物語として美しく整えたもののように感じられます。
原作の『江戸の舞踏会』には
皮肉や蔑視のニュアンスが含まれており、
それが芥川の創作意欲を刺激したのかもしれません。
ただ、
芥川はロティに対して反発するのではなく、
「創作」という手法を通じて、物語を別の世界のものにした
のではないでしょうか。
これは芥川自身が「ロティは豪い作家ではない」と述べている点からも、
彼のスタンスがうかがえます。
また、『舞踏会』について調べている中で、興味深い論文を見つけました。
この論文では、
小説内に登場する「ワットオ」、
つまりヴァトーという芸術家の作品が、
『舞踏会』に重要な意味を与えている
と指摘しています。
実際に読んでみたところ、これまで意識していませんでしたが、
この視点は『パドドゥ』の意味を考えるうえでも非常に重要に思えました。
以下に、該当部分を抜き出してみます。
「舞踏会」におけるロティとヴァトーの位相
島内裕子
https://ouj.repo.nii.ac.jp/records/7354
P12
…二人の会話では、ヴァトーが重要な役割を果たす。すなわち、将校は明子のことを、「ワツトオの画の中の御姫様のやう」であると喩える。しかも、それに続けて、「明子はワツトオを知らなかつた。だから海軍将校の言葉が呼び起した、美しい過去の幻も、――仄暗い森の噴水と凋れて行く薔薇との幻も、一瞬の後には名残なく消え失せてしまはなければなからかった」と書かれていることに特に注目したい。…すなわち、現代人にとっては、ヴァトーの雅宴画や、そこに描かれている風景・異称・庭園・樹木草花などが、画集や展覧会を通してすぐに思い浮かぶものであり、(中略)
原作の『江戸の舞踏会』にもヴァトーの記載は見られますが、
その表現の使い方は芥川の『舞踏会』とは異なるように思えます。
芥川の『舞踏会』では、
ヴァトーを取り入れることで、
小説全体の雰囲気や色彩が大きく変わっているように感じられます。
この巧みな表現こそが、芥川の創作における才能を物語っているのかもしれません。
ヴァトーの絵画がどのようなものだったかについては、
以下のサイト様が非常に分かりやすく解説されていますので、ぜひご覧ください。
具体的な作品や背景を知ることで、
雅宴画が持つ魅力や特徴をより深く理解する助けになると思います。
ヨルシカの「パドドゥ」の歌詞にある
「芥川の小説みたいに今だけの想い出になろう」
というフレーズは、
芥川の『舞踏会』がロティの『江戸の舞踏会』を創作によって作り替えた小説
である点と響き合っているように思えます。
ここで伝えたいことは、
現実のままではない、
夢のように美しく装飾された想い出を描こう
としているのではないでしょうか。
さらに、
芥川が描いた舞踏会の情景は、
アントワーヌ・ヴァトーの雅宴画
(フェート・ギャラント)
のような雰囲気を想起させるように創られてます。
その表現により、
現実から離れ、
幻想的で美しい世界を
描き出そうとしていると想像してみると、
『パドドゥ』の情景、つまり蒼天の中、茶色の野原で踊る男女の画というものが、
なんだか儚くも鮮やかな幻想を創作によって描いていると解釈できそうです。
さらに、雅宴画についても詳しく知りたいと感じましたので、以下に関連する内容を引用します。
この視点を通じて、雅宴画がどのような背景や特徴を持つのかを感じ取っていただきたいです。
吉田朋子
P2
だが、18 世紀には理想的な状況を描いた新しいジャンル「雅宴画」(fête galante)が登場している(図 1)。これこそが、ユートピアの視覚的表現にあたるのではないだろうか。美しく着飾った男女が穏やかな自然の中で、快適に会話や音楽を楽しむ様子を描いた一群の絵画である。 彼らの関心は恋愛の喜びに集中していることが多い。雅宴画の主要な構成要素は風景と人物であり、自然と人間の調和の表現だということもできる。
P8
雅宴画を構成する重要なもう一つの要素は、人間の描写である。豊かな自然の中で語らう男女の姿は、いかに上品に描かれようとも、官能的であり性的な含意に満ちている。
P9
雅宴画に描かれる男女の振る舞いが、すべて品位あるものであるわけではない。しかし、女性が丁寧に扱われる描写はサロン文化のもたらしたものであろう。自然と文明という二項対立はしばしば女性と男性になぞらえられ、豊穣の女神に見られるように、女性に対しては古くから文明ではなく自然が投影されてきた。
P10
現在の私たちから見ると、雅宴画の魅力はそのはかなさにある。ヴァトーの《シテール島の 巡礼》は旅行であり、いつか終わりを迎える。フラゴナールの《サン・クルーの祭》は、ひとときの娯楽を求めて集まった人々を描いている。描かれているのは常に、いつか終わる楽しい時間であり、つかのま現れたユートピアを覗き見ているような、どこか切ない感覚を与える。
この雅宴画が描くのは、
美しく着飾った男女が穏やかな自然の中で調和をする姿が描かれます。
それは、
現実から離れた幻想的なひとときを描こうとしながらも、
その魅力には儚さがあり、
必然に終わりを迎える楽しいひとときのある、
ユートピアのような情景
を感じられます。
参考に。
はい、ではそろそろ中盤ぐらいですかね。次は「又三郎」です。
又三郎については、別記事を書いたのでそこであらかた調べました。
しかし、今回のように、論文や批評、考察を踏まえながら自分なりに考えてみるのも、大変意義があるように思います。
これらの視点を参考にしつつ、
自分自身の解釈を深めていくことで、
新たな発見や視点が見えてくるかもと思います。
そこで、改めて調べ直し、自分なりの考えをもう少し掘り下げていきたいと思います。
このプロセスが、作品全体の理解をさらに深めるきっかけになればと考えています。
まずはこちらのサイトです。
引用元
「風野又三郎から風の又三郎へ」部分より引用
https://tokyoaccent.com/kazeno/karahe.html
①
「SF的な前身形「風野又三郎」から現実的な「風の又三郎」への変化がなければ、風の精、又三郎から転校生三郎への転換がなければ私達はこの異彩を見ることはできませんでした。ではなぜ作者はこのような書き換えを行わなければならなかったのでしょうか。」
②
「宮沢賢治少年小説」(続橋達雄、洋々社)はおおよそ次のようなことを言っています。 より現実的な内容への変化は、農村活動の挫折、苦しい闘病、セールスマンとしての苦闘などにより現実社会の厳しさを味わった作者の、かつては奔放であった夢想の力に抑制がかかり、現実を見る目に変化が生じたことによる。
また、
こちらの論文でも
同様な記述がありました。
遠くからきた少年 ー宮沢賢治「風の又三郎」をめぐってー
川島秀一
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yeiwa/1/0/1_KJ00004746124/_article/-char/ja
P6
ここにおいて、 又三郎が「風の精」としての真実とその姿をあらわします。 〈高田三郎から〈風の又三郎〉への変身です。 いつもの上着の上に羽織った「ガラスのマント」と「光るガラスの靴」は、その変身の象徴です。そのガラスのマントは、いわば空を飛ぶための装置でもあるのです。ここであえて誤解を恐れずに言いますと、 ここに差し出される「又三郎」とは、 単に「三郎」という少年の夢の中にあらわれた人物ではないということです。 たとえば、「幻想そのものの意味」であり、 その「真実」であるということです。
P9
この筆者はさらに、 そうなった理由を「羅須地人協会以後の厳しい現実体験を経た、晩年の賢治の心境」が反映したものだと言い、そこには「空想の空虚さを痛感したであろう賢治」がいるのだと言います。
今回の『幻燈』という作品テーマにおいて、「又三郎」はどのような意味を持つのでしょうか。
宮沢賢治の『風の又三郎』は、
もともと『風野又三郎』というSF的な要素を含んだ作品として誕生しましたが、
晩年の賢治の心境の変化によって、
より現実に近い世界を描写する物語へと変化しました。
しかし、
その中でも異質な存在である「高田三郎」を配置し、
現実社会の中における「幻想」としての又三郎の存在を仄めかしています。
この「又三郎」というキャラクターは、
どこか救済の象徴として機能しているようにも感じられます。
幻燈というテーマにおいてのヨルシカの「又三郎」は、このような原作の背景を踏まえ、
「現実に近い世界」の中で「幻想的な存在」を置き、救済を期待しながら、
現実と幻想を交錯させるように創作されている
のではないでしょうか。
そして、ここからはあくまで推測です。
宮沢賢治は当初「風野又三郎」という作品を生み出しましたが、
その後、社会事情や現実社会を踏まえ、
「風の又三郎」という新たな作品を創作しました。
つまり、
原作である「風野又三郎」から発展し、
新たな意味を持つ作品を生み出した
ということです。
ヨルシカは、この創作の流れを深く理解したうえで、
その流れを踏まえ、
宮沢賢治自身が行ったような創作行為に挑戦しよう
としたのではないでしょうか。
その結果として、新たに生み出された楽曲が「又三郎」だったのだと思います。
こうした視点から見ると、
宮沢賢治が「風野又三郎」から「風の又三郎」に変える際に漢字を平仮名に置き換えたように、
ヨルシカが「風の又三郎」の“風の”部分を取り除いたのも、一貫性のある表現として非常に納得がいきます。
この部分もありますから、あながち悪くはないかもしれません。
「春泥棒」以来約5ヶ月ぶりとなるヨルシカの新曲「又三郎」は、
宮沢賢治「風の又三郎」をモチーフに制作。
現代社会の閉塞感、不安、憂鬱さなどを打ち壊して欲しいという想いを風の子に託した疾走感溢れるナンバー。
特設サイトより引用https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/matasaburou
個人的に特に好きな「いさな」「雪国」をはじめ、未配信の良曲が多くあったので、広く聴いて貰えるのは楽しみでもあります。 pic.twitter.com/dfQF8cquWW
— Ryu Kato 加藤隆 (@ryukatoo) March 31, 2026
次は「靴の花火」です。
この楽曲はセルフカバーであり、
もともとアルバム『夏草が邪魔をする』に収録されていたものです。
それが今回、アルバム『幻燈』の中で再び登場したのには、
何かしらの意図やテーマ
が込められているのではないかと推測できます。
「靴の花火」は既に多くの解釈がなされている楽曲ではありますが、
アルバム全体のテーマによって新たな意味を持つ可能性があります。
そのため、今回は『幻燈』という文脈において、この楽曲を捉え直してみたいと思います。
ちなみに僕自身、この楽曲についてはまだ解釈をしていないため、新鮮な気持ちで取り組みます。
それでは、いきましょう。
宮沢賢治童話絵本の研究 : 「よだかの星」の場合
木村東吉
https://cur-ren.repo.nii.ac.jp/records/765
P4
要するにこの絵本は,ほぼ現在の賢治学会における『よだかの星』論の大勢にそって描かれていると言ってよい。よだかの周囲に,原稿用紙やインク壷があしらわれるのは,卓越した飛邦力と鋭い鳴き声をもちながら、夜行性で足が弱く、羽根に華麗さを欠くよだかに、詩人の姿を投影しているからに違いない。・・・,詩人が社会的に認知されていなかった時代の日本的表現というのであろう。本文にない兎の影が登場するのも、鷹とよだかの間に、父政次郎と子賢治の関係を類推させるのも、作品論の流れに沿ったものになっている。
宮沢賢治「よだかの星」(<特集>文学教材研究)
太田正夫
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/14/1/14_KJ00010058185/_article/-char/ja
P1
即ちこの作品が、すぐれた文学作品となっている契機は、よだかがよだかとして生きていた現実の世界では生きていかれなかったところにある。そのような状況へゆかなければならない必然性の重さが、あとの転生を力強いものとしているのである。
P2
よだかの願いは、美しく輝きたいために、ひかりをだしたいことであった。みにくさを転じて美しさにしたいためであった。しかもそれは、死を賭して自らの全存在をかけて行われようとしているのである。
よだか自体が詩人である宮沢賢治自身を投影しているとは、これまで考えていませんでした。
しかし、
先ほどの「又三郎」の考察でも触れましたが、宮沢賢治自身は順風満帆な生活を送っていたわけではなく、現実社会の厳しさを深く実感していた人物です。
そうした背景から、
詩人としての自分自身の見られ方を、
よだかという存在に重ね合わせた
のではないかと捉えています。
また、アルバム『幻燈』の中でこの楽曲が選ばれた理由は、
「死からの再生」、
つまり転生というテーマにあるのではないかと考えられます。
このよだかのストーリーは、
よだかが死ぬことで「みにくい」と言われてきた姿を捨て、
青い光を放つ星となるというものです。
【原作より引用】
そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがい燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
よだかの星https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html
さらに、これまで読んできた論文などから
、宮沢賢治が仏教的思想を持ち、その中に輪廻転生の概念が含まれていることは理解していました。
この思想が『よだかの星』に反映されているように、
ヨルシカの楽曲もそれを踏まえた表現として作られているように感じられます。
次は「老人と海」について考察します。
この作品については以前、一度記事にしたことがあるのですが、
今回はアルバム『幻燈』の中における楽曲としての側面を改めて掘り下げていきたいと思います。
原作を読んだ当時、漁師の生きざまを描いた名作という印象を受け、その躍動感に圧倒された記憶があります。
しかし、当時は作品の核心にあるメッセージや深いテーマについては十分に理解できていなかったように思います。
そこで今回、改めて調査し、作品について考えを深めてみました。
その結果、当時の自分の解釈がいかに表面的であったかを痛感しました。
『老人と海』におけるヘミングウエイの自然 : その二重性とエマソン的自然観
梅沢時子
http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/handle/11334/1119
Santiago(サンチャゴ)・・・老人
Manolin(マノ―リン)・・・少年
P7
後述するが、Santiagoは月に、少年Manolinは太陽に照応されている事実から、Jungの論ずる太陽神話の構成の中で考えることが可能である。この場合、老人は少年によって再生を成就することになる。
P8
魚釣りは、この作品では、人格完成を目指した精神的統一の過程になっていて、そのことが、社会への連帯につながるという信念に裏打ちされた、日々繰返し行われるところの一種の儀式と見なされ得る。
P8
殊に、The Old Man and the Seaにおいては、魚釣りは、老人の、死を直前にした行為であり、救いが願望されて、お祈り的行為とされている。
P9
John Killingerの解説を借りると、「実存主義の基本的姿勢は、個人特有の自己証明を成就すること」である。老漁夫Santiagoが黒い湾龍の中で大魚まかじきを捕獲する行為がそれに該当する。
※補足 実存主義の参考サイト様
P15
Santiagoを月に、Manolinを太陽に照応させて、月が没し、太陽が昇る図において、再生的、連続的願望を表現している。Santiagoは〈陸地〉においては太陽の照る間も屋内の陰に身を置き、前日の新聞しか読まなく、終日不活溌で、食欲もない。過去の回想にふけるのみである。眠る姿は死人の様だ。(“no life in his face”)一方、少年の方は、当日のニュースに詳しく、日の照る戸外で活動する。ちょうど、日が没し、太陽の出を待つといった図で、日暮れになると少年は老人の部屋にやってきて、老人の午睡を覚ます。しかし、朝になると逆に老人が、少年の部屋に入って少年を起こす。老人はそのとき、沈む月(”the dying moon”)に照応されている。かようにして、老人は、<月>に照応されている〈海〉に向かうのである。この、海における老人の行為こそ、死を決した行為であると言い得る。
P18
…夢の作業は「思想や概念を幻覚に置き換えること」なのだが、「海から延び上がった島々の山頂の白雪」(“the white peaks of the Islands reising from the sea”)のイメージと、それに続く「昏れの浜辺に仔猫のようにたわむれるライオン」(“They played like young cats in the dusk”)のイメージは、Hemingwayの観念を伝えるものである。
⇩
従って、山頂の白雪のイメージは、破壊、死の世界において苦闘し、超絶を目指す姿を意味する。さらに言い換えると、個人の内面の秩序を確立し、調和に達する姿を意味する。
続いて現われる「昏れの浜辺に仔猫のようにたわむれるライオンの群」のイメージは、愛を表現していることと、少年に対応されていることが作品の中で明示されている(“・・・ and he loved them as he loved the boy.”)。・・・このようにライオンの夢は、調和の社会とその発展を願う夢であるといえる。そしてこの最後の夢こそ、願望充足の意味が強い。このようにして、二つのイメージ、山頂の白雪と、ライオンの群は、それぞれ、個人の内的秩序、そして、調和の社会の観念を表現するものである。さらに、少々飛躍すると、個人主義に立脚した民主主義の願望であるとも言えよう。
この論文を読んで、はっと気づいたのは、
海に出る行為が「死に赴くこと」
を意味するという解釈です。
確かに、老人サンチャゴが昔の栄光を取り戻すために成果を上げようとする姿勢は理解していましたが、
その挑戦自体が「死」を意味する象徴的な行為であるとは考えていませんでした。
結果的に死に至る可能性があることは想定していましたが、
この小説全体の意味合いとして「死」を示唆しているとは思っていなかったのです。
さらに、
この「死に赴く行為」としての魚釣りは、単に生きるための闘いにとどまらず、
「人格完成を目指した精神的統一の過程」
として描かれている点にも注目すべきです。
魚釣りはサンチャゴにとって、
過去の栄光を追い求めるだけでなく、
自己と向き合い、
自らの存在を確立するための儀式的な行為でもあります。
この視点から考えると、
死に向かう挑戦そのものが、
サンチャゴにとっての内面的な成長と精神的統一を達成するためのプロセス
だったと解釈できます。
それを踏まえ重要なのは、
老人が「月」、
少年が「太陽」
を象徴している点です。
この月と太陽の関係性は、
アルバム『幻燈』における「死からの再生」というテーマと密接に結びついていると考えられます。
月が沈み、太陽が昇るというサイクルが『老人と海』に込められたメッセージの一部であり、
その再生のイメージがアルバム全体の構成に影響を与えたのではないかと思います。
つまり、
老人の「死に赴く行為」というものが、
少年に影響を与えることが表現されている、
と思いました。
いわば継承に近いような意味合いがあるかもしれませんね。
そう考えますと、
「山頂の白雪」と「ライオンの群」もまた、
終わりから新たな始まりへの移行を象徴しているように感じられます。
これらのイメージを通じて、
ヨルシカの楽曲『老人と海』が伝えるメッセージが、
より深い次元で小説のテーマと呼応しているように思いました。
次は「さよならモルテン」です。
この楽曲には、
最初から非常に深い意味が込められているような印象を受けました。
そのため、今回はしっかりと調べて深く考察してみたいと思います。
全力で取り組んでいきます。
アルバム『幻燈』のテーマと照らし合わせる部分です。
考えてみたいと思います。
やはり、
これは「千と千尋の神隠し」的な視点で理解するのがしっくりくるように思います。
つまり、
旅に出る前のニルスと、旅を経て帰ってきたニルスという対比――
過去の弱い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わるというテーマ
があるのではないでしょうか。
ニルスが小人になったこと、
そしてモルテンと共に小人の世界で数々の経験を積み、
それによって自分自身が変化したこと
――これらが象徴しているのは、
音楽を通じて自分が変化し、成長したというヨルシカ自身の表現
ではないかと感じます。
音楽による自己変革や成長の過程が、
この物語とリンクしているように思えるのです。
そして、ここからは、この物語に隠されているストーリーについてです。
実は、ここを重点的に取り上げたいです。
『ニルスのふしぎな旅』におけるスウェーデンの近代化とセルマ・ラーゲルレーヴの国家観
日本児童文学学会例会(プロジェクト人魚第14 回研究会)
中丸 禎子(東京理科大学: nakamart@rs.tus.ac.jp)
https://www7b.biglobe.ne.jp/~nakamaru_teiko/pdf/nils.2014.pdf
P5
「国民」の姿〈ニルス・ホルゲション〉
怠惰で愛を知らず、信心がなく、動物にも意地悪→勤勉で友情に篤い、「立派な国民」として帰宅
P5
ニルスを「尊敬すべき少年」にしたもの
・スウェーデンの地理と歴史
・ 動物とのふれあい・ケブネカイセのアッカの教え
・ ガチョウ番の少女オーサとの関わり
P5
〈オーサ〉
ニルスが小人になる前に、スコーネ地方で一緒にガチョウ番をしていたニルスと同い年の少女。ニルスと時を同じくして、弟のマッツとともにラップランドを目指して北上。複数回登場する唯一の人間。
…しかし、「ジプシーに、自分に親切にするものは自分と同じ病になる呪いをかけられた」とする旅の女を泊めた後、4 人の姉は女と同じ病気で死ぬ。親切が呪いで返される理不尽に耐えられなくなった父は家を出ていく。母、オーサ、マッツはスコーネに移り住むが、母も間もなく同じ病気で死去。オーサとマッツは、講習会でその病が結核であること、洗濯と掃除で予防できること、母と姉たちが病気になったのは呪いのせいではないことを知り、父に真実を告げるため、父がいるというラップランドを目指していた。
P6
〔引用4〕
事故〔引用者註:マッツの鉱山事故〕のあと、ニルスはなんとしてでも、ひとりぼっちになったガチョウ番のオーサを助けてあげたいと思い、奔走しましたが、父親が無事見つかると、オーサのためにすることもなくなり、それからは遠出もせずに、ガンたちといっしょに、ずっと山の谷間ですごしました。
そして、モルテンの背中にのって家へ帰り、もとの人間にもどれる日を待ちこがれるようになりました。オーサがふつうに口をきいてくれて、鼻先でドアをバンとしめられたりしない人間にもどりたいと思ったのです。(下、p.368)
P7
オーサはニルスとパラレルなルートで旅をするが、「大きく、りっぱになる」のではなく、「子どもにもどる」
これらの部分を引用しました。説明します。
弟マッツと一緒に父親を探していた姉オーサが、ひとりぼっちになったとき、ニルスが彼女を助けます。
オーサ自身は弟の葬儀が終わるまでは気丈に振る舞い、
大人たちとの交渉をこなしましたが、
葬儀が終わった後は泣き崩れてしまいました。
そして、その後に描かれる場面――
これが本当に、本当に重要なシーンだと僕は思います。
だからこそ、長文になりますが、ここで引用したいと思います。
【原作より引用】
セルマ・ラーゲルレーヴ 作
菱木 晃子 訳
P342
マッツの葬式がおわりました。
お客はみんな帰っていき、いま、小屋にいるのはオーサだけです。
オーサは、しっかりとドアをしめていました。ひとりで静かに、マッツのことを考えたかったのです。
マッツがいったこと、やったことが、つぎつぎと思いだされました。マッツのことを考えれば考えるほど、これからマッツなしで生きていくことが、どんなにむずかしいかが身にしみました。
やがて、オーサはテーブルに顔をふせ、声をだして泣きはじめました。
「マッツがいなくて、あたし、どうしてやっていけるっていうの……?」
P343
…ところがドアの前に立っていたのは、おとなの手のひらくらいの小さな小人でした。夜といっても外は白夜でまだ昼のように明るく、オーサにはそれがラップランドまでくるあいだになんども見かけた、あの小人だとわかりました。
小人を見ても、オーサは夢の中にいる気分でしたので、こわいとも思わず、おちついて立っていられました。小人に対して、マッツが父さんを見つけるのを助けてくれる人をよこすといっていたから待っていたのよ、と思ったくらいです。
それに、オーサの思ったことは、まちがってはいませんでした。小人は本当に、オーサの父親のことを伝えにきたからです。
小人はオーサが自分のことをこわがっていないとわかると、父親がいまどこにいて、どうやってそこへ行ったらいいかを、手短に話しました。
オーサは話を聞いているうちに、だんだんと頭がはっきりとしてきました。ききおわったときには、すっかり目が覚めていました。
すると急に、この世の者とは思えないものを相手にしていたことがおそろしくなって、ありがとうもいわずに小屋の中にひっこみ、ドアをバンとしめてしまいました。
説明します。
この場面は、
ヨルシカの楽曲「ノーチラス」のMVに描かれる場面と非常に似た印象を受けました。
エイミーを失ったエルマが桟橋まで辿り着き、
「ノーチラス」の詩が書かれた紙とギターケース、
そして泣いているエルマを「朝焼け」が照らすシーンは、
この場面と重なるように思えます。
つまり、
弟マッツがエイミーに、
姉オーサがエルマに当たり、
マッツの死後、オーサを救ったのが小人のニルスであるように、
エイミーの死後、エルマを救ったのは「ノーチラス」と「朝焼け」だった
のです。
「朝焼け」については、僕のブログ記事で詳しく書いているので、ぜひそちらもご覧ください。
さらに、マッツが亡くなった場所、
オーサが葬式をした場所、
そして小屋の中で泣き崩れたオーサがニルスと出会った場所――
これらはすべて『ラップランド』です。
そのため、
「ノーチラス」の歌詞にある“ラップランドの納屋の下”という表現が、
この「ニルスの不思議な旅」のこの場面を指していたと推測できます。
また、
アルバム『幻燈』のイラストに描かれている「さよならモルテン」の絵には、
子供二人がガムラスタンの通りを走っている姿があります。
楽曲のための構想画 pic.twitter.com/DJR1EHyyRA
— Ryu Kato 加藤隆 (@ryukatoo) April 7, 2026
これが何を意味しているのか疑問に思っていましたが、
もしこれがマッツとオーサの姉弟を描いているとしたら、
その意図にも納得がいきます。
つまり、
マッツとオーサが父を捜してラップランドに向かっている場面
を描いているといえるのです。
これに考えが至った時、
あまりにも衝撃でしたので、
愕然としてしまいました。
はい、つぎは「いさな」です。
「いさな」は、小説『白鯨』をモチーフにしています。
ただ、この小説は読み進めるのが非常に難しかったというのが正直な感想です。
特に、物語の内容そのものというよりも、
登場人物や地名などカタカナ表記の名前が多すぎて、混乱してしまうことが多かったのです。
そして、論文を読んでも、その内容を掴むのが難しく、正直途方に暮れていました。
しかし、ようやく答えの手がかりを見つけた気がします。
これから、それを引用も交えながら整理してまとめてみたいと思います。
『白鯨』研究 ―物語世界と共鳴する音表現の諸相
濱田みゆき
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/records/2000015
P18
『白鯨』に転じて考えるならば、イシュメールが語る物語を聴く「私(読み手)」と置き換えて、比較的容易に納得できることである。また、イシュメールが語り手としての姿を消し劇中劇の形がとられている場合であっても、私たちに語っていると考えれば、これはメタ物語世界的な空間に読み手が入り込んでいると考えることができるだろう。
P19
小説家は「物語内容を語らせるにあたって、『作中人物』の一人を選ぶか、それともその物語内容には登場しない語り手を選ぶか、という選択」(287)をすると述べ、語り手は登場人物として登場しない「異質物語世界の物語言説」と、登場人物が語り手となっている「等質物語世界の物語言説」の二つのタイプに分類している。そしてさらに、語り手が主人公である場合「自己物語世界」と定義している。『白鯨』は語り手イシュメールの「等質物語世界の物語言説」であるが、時にイシュメールは登場人物としては姿を消してしまう
P33
ここにもメルヴィルの事実と虚構を取り混ぜ、縦横無尽に織りなす創作方法をみることができる。
~
メルヴィルにとって、学術的な根拠や自分の航海からの情報を補足する捕鯨記などは、『白鯨』の物語を充実させるためのものであったといえる。まったくの創作ではなく、事実や捕鯨の物語を『白鯨』に取り入れることで、エイハブが立ち向かうモービィ・ディックの物語に真実味を与え、かつ、重厚感を与えている。
P34
先述のリンネの鯨は魚ではないとする説の否定など、メルヴィルは収集した情報を『白鯨』に適応させるために、虚実をミックスさせて書いていることがわかる。坂下のメルヴィルについての「航海の記事を先輩たちの著作からひっぱってくるのは彼の常套手段だった」(630)という指摘からも明らかなように、文献に書かれたことをまるで語り手の所見であるかのように書くなど、文献の利用方法は実に様々である。
P35
鯨を象徴的に絵画で描くことは、みる者に、鯨の真の躍動感や巨大さを伝える有効な手段ではあるが、実体を正確に伝えることはできないと書いているのである。第55章では、実際に鯨捕りが目にするような鯨の真の姿を、キャンバスなしで描くつもりであるとも言っている。これは、絵画ではなく、『白鯨』において言語で鯨の真の姿に迫りたいという語り手の意図であり、目指すところである。
~
語り手、ひいてはメルヴィルは、言語は実体を語るには不完全な道具であることを自覚していたが、それでも言語により鯨を表現したいという願望をもっていたということになる。
P36
鯨の姿形は記号として鯨を表しながらも、聖刻文字で覆われることによってその実体は読み解くことは出来ないものであることも象徴している。つまり恣意的な言語では表現することのできない自然の神的な象徴として、鯨を描いているのである。
P39
芸術家が美を達成した時には、美を人間に知覚させようとした象徴自体はほとんど無価値になっていると書かれた箇所を引用して、メルヴィルは、優れた書物は作者から独立し、それだけを鑑賞すればよいと述べている。
『白鯨』を読んでいる間、語り手であるイシュメールが主人公だと思っていました。
しかし、
中盤に差し掛かると、
突如として鯨に関する詳細な解説が始まり、物語の進行が薄れてしまいます。
さらに終盤では、
イシュメールの存在感がほとんどなくなり、代わりに船長エイハブが主人公のような役割を担うようになります。
物語の結末では、
白鯨との激しい戦いの末にエイハブが海の中で命を落とし、生き残ったのはイシュメールただ一人でした。
この物語が『幻燈』とどのように関わってくるのかを考えると、
「神のような幻想を描く」
というテーマが共通しているのではないかと思います。
『白鯨』において、
白鯨は神のような存在として描かれ、
人間である船長エイハブがその神に挑む形となっています。
時代背景について論文を読む中で分かったことですが、
当時、鯨に関する情報はほとんどなく、
存在していても本に書かれた文字や記号のような断片的なものに過ぎなかったようです。
そのため、
作者のメルヴィルは『白鯨』を何度も書き直す際に、
鯨に関する文献を丹念に集めて執筆に取り組んだといいます。
それでもなお、最終的には未完成の形で終わったようです。
これほどまでに、
鯨、つまり白鯨を文字で表現することがいかに難しいかが、
この作品の根底にあると言えます。
ヨルシカ音楽画集「幻燈」今日から全曲配信になりました。
— Ryu Kato 加藤隆 (@ryukatoo) July 1, 2026
ディスク2を含め全25曲、ぜひお聴きしていただけたらと思います。 pic.twitter.com/vKiKuYsLAx
『幻燈』に話を戻すと、
「いさな」の楽曲に描かれている絵は、
女性がソファーで横たわり眠っている姿です。
一見、部屋の中にいるように見えますが、その周囲はまるで海の中のように描かれています。
この『幻燈』のストーリーは、
画家である男が実在しない幻想の女性を描こうとしている物語だと、
「いさな」の楽曲を通じて語られているように感じました。
そのため、MV「第一夜」では男女が描かれている場面が登場しますが、最後には男性がキャンバスの中へと吸い込まれていきます。
ここで気づくべきだったのかもしれませんが、
この物語において、
女性は最初から存在していないという前提でMVを解釈しなければならなかった
のだと思います。
今世では出会っていないのかもしれません。
実在しない女性でありながら、彼女が頭の中の幻想として存在している。
それゆえに、その姿をキャンバスに描いているという点が、
『幻燈』のストーリーと深く関わっているのではないかと感じました。
そして、これは補足でありますが、
どれほど伝わるかは分かりませんが、あえて書かせていただきます。
『白鯨』研究 ―物語世界と共鳴する音表現の諸相
濱田みゆき
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/records/2000015
P20
メルヴィルが義父レミュエル・ショー(Lemuel Shaw)に1849年10月6日付で宛てた手紙には、『ホワイト・ジャケット』と『レッドバーン』の二つの作品について次のように書いている。
They are twojobs, which I havedone for money-being forced to it, as other men are to sawing wood. And while I have felt obliged to refrain from writing the kind of book I would wish to; yet, in writing these two books, I have not repressed myself much ― so far as theyare concerned; but have spoken pretty much as I feel. ―― Being books, then, written in this way, my only desire for their “success”(as it is called) springs from my pocket, & not from my heart.(Leyda 316)
この手紙からは、三つのことを読み取ることができる。
一つ目が、メルヴィルは生活の糧を得るためにこれら2作品を書いたということ。
二つ目が、売れる作品を書くために、メルヴィルは執筆時から読者である大衆を想定して書いたということ。
そして三つ目が大衆向けに書いた作品で、自分の望んでいるような内容の本を書くことは控えたが、一方で自分の書きたいことを抑えてはいないということである。
三つ目のことは少しわかりにくいが、メルヴィルは大衆向けの内容にしたが、その書かれた内容については自分の思う通りに書いているということであろう。
この部分については細かく言及を控えますが、
ヨルシカはどうしてこんなにもわかりづらいのかと思うと、
なんだか泣きそうになりました。
たとえ誤解を生むような表現であったとしても、
また、多くの人がメルヴィルの手紙というエピソードを知らないとしても、
言葉で詳しく説明しようとしなかったことに対して、申し訳なさを感じました。
僕らに教養が足りなかったのだと。
なんか、本当に申し訳ないです。
はい、いよいよ終盤ですね。
次のテーマは「左右盲」です。
このテーマについては、チノカテとの考察もありますので、ぜひそちらもご覧ください。
それでも、やはり改めて自分自身の視点で考えてみる価値があると思います。
この論文を読んで、「幸福な王子」という作品に「唯美主義」というテーマが込められていることを初めて知りました。
それまで私は、この物語については自己犠牲の意味合いがあるとしか考えておらず、
むしろそれが唯一のメッセージだと思い込んでいました。
さらに、
自己犠牲による善行の結果として、幸福な王子は天国に近しい場所へ行き、生まれ変わる機会、
つまり転生をすることができた、という解釈に基づいて作品を理解していました。
それでは、こちらの論文を読んでみてください。
オスカー・ワイルド「幸福な王子」 ――唯美主義運動の〈使者〉としてのツバメ――
輪湖美帆
https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/6812
P3
このようにツバメは、芸術を生活の中に取り入れていこうとした唯美主義運動において一つの重要なモチーフであったことがわかる。
P5
美しさと実用性という二つの価値がこのテクストのキー概念となっており、ツバメも初めはその二つは一致しているべき、という考え方を共有しているのである。
P5
ツバメが王子という「芸術作品」の声を聞くことのできる唯一の存在であり、その *musical voiceʼ (Wilde, Works 30) に従い、貧しい人々に王子のサファイアやルビー、金箔を届けていることが大きな意味を持つことになる。
P9
すなわち「幸福な王子」においてもまた、〈表層〉から〈内実〉を解釈する行為がいかに傲慢で的外れかが、強調されているように思われる。
P10
しかしまたしても注意しなくてはならないのは、アンデルセンの結末では天使たちと花は一緒に歌っているのに対し、ツバメと王子は、天国では別々になっている点である。すなわちツバメは楽園の庭(*my garden of radiseʼ) に、幸福の王子は黄金の街(*my city of goldʼ) に行くと書かれており(Wilde, Works 35)、ごみの山で共にいた二人は、天国で一緒になることはなく、ここでも、ラスキン的唯美主義は完全には達成されないようでもある。
P12
したがってワイルドの「幸福な王子」は、英国の唯美主義および唯美主義運動を、〈表層〉だけが流通し、〈内実〉は理解されないという、それらが陥りかねない問題点を見せつつ描いた上で、一般家庭へと発信されている。その意味で唯美主義運動の〈使者〉としてのツバメのような作品と言えるかもしれない。
そこで、「唯美主義」とは何なのか。ChatGPTに聞いてみました。
唯美主義とは、芸術や美そのものを追求し、道徳や実用性といった他の価値観から独立した美的価値を最優先する思想です。
この考え方は19世紀後半に広まり、「芸術のための芸術(Art for Art’s Sake)」というスローガンに象徴されます。
オスカー・ワイルドなどが代表的な人物で、美の独立性や感覚的な喜びを重視し、形式美を高く評価しました。
唯美主義は、芸術の存在意義を問い直すとともに、人々に純粋な美の体験をもたらしました。
それでは、「唯美主義」がどのような意味を与えているのかについて、他の論文も読んだ内容を自分なりに考えてみます。
当時の時代背景では、
作品や物に対して「美しさ」と
「有用性」の両方が重んじられ、
それによって価値が決められていました。
しかし、
唯美主義の思想は「有用性」の無い作品でも、
「美しさ」があればそれのみで価値がある
と主張するものです。
僕も、このような理解で捉えています。
この視点を踏まえ、「幻燈」においてヨルシカが「幸福な王子」をテーマに選んだ意図を考えてみました。
これはヨルシカだけに限らないことかもしれませんが、
自ら生み出した作品、
つまり創作物そのものについて、
外面的な要素(アウトライン)は伝わるものの、
その内面的な本質(コンセプト)までは完全には伝わらない、
というもどかしさがある、
それを表現しているのではないでしょうか。
「幸福な王子」のストーリーでは、
王子が自身の宝石や金箔を貧しい人々に渡すことで一時的に幸福を与えるものの、
その行為は根本的な問題解決には繋がりません。
これを創作に置き換えると、
創作物を届けることにより評価を得られたとしても、
その本質的な思いや意図が相手に完全には伝わらないことへの苦悩を示しているように思います。
さらに、「左右盲」の歌詞には「だんだんと忘れていく」というニュアンスが込められています。
創作活動の時間は経過していくと、
受け手つまりリスナーにどんな作品を届けるべきか、
どんな作品を届けていっていたのかが分からなくなり、
次第に自分の頭の中で描いた幻想がそのまま創作物へとなっていく
――そういったニュアンスがあるのかなと思いました。
そういう風に妄想を膨らませていると、
送り手の意図を完全には読み取ることができないかもしれません。
それでも、
受け手としては作品に対して真摯に向き合いたいという気持ちが強くなりました。
最後に、「アルジャーノン」です。
長かった記事もこれで終わります。
アルジャーノンは、原作を読み、そのテキストとストーリーに驚き、感動しました。
ある意味、シュタインズゲートというゲームを思い出しました。
論理に従って、
先がどうなっていくかがおぼろげに予想できつつ、
見守っていくような作品として同じ印象を持ちました。
すごい。
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』─(A⇔Ā)=Aの世界─
藤田裕司
https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/TD00001561
P8
つまり、作者キイスは、プラトンの「洞窟の比喩」(仏教流に「端的にいえば〈上求菩提・下化衆生〉の教説)をベースにして、チャーリィが体験した宇宙への「膨張」と地上への「縮小」という往復運動を、長年、洞窟の中で暮らしてきた人間が太陽の方に向かって上昇し、その後、下降して元の洞窟に戻るという体験と、重ね合わせているわけである。それは、チャーリィが1年足らずのうちに体験したIQの急速な上昇及び下降とパラレルなこと、いうまでもない。
P9
チャーリーの場合、魂の一部をなす知性(理知)は大いに向上するものの、その器たる肉体をめぐって新旧のチャーリィが確執を起こし、しばしば体外離脱や二重身ないし二重人格様の体験が生じる、という問題を呈している。
P9
しかし、まもなくチャーリィの退行が始まり、その過程で上記のようにアリスと結ばれたとき、二人は「人間の魂を再生し永遠不滅のものとするために合体」し、チャーリィの「肉体は宇宙の広大な海に呑みこまれ、不思議な洗礼をほどこされ」た、と述べられている。
P10
彼の詳細な「経過報告」が示しているように、実は彼がIQの上昇によって可能としたのは、単に過去のトラウマ的体験の想起だけでなく、それにまつわる感情の自己認識、すなわちメタ認知であった。
P11
つまり、チャーリィの自我が目覚めたのである。目覚めた自我は、それまで埋没していた周りの集団に対して自らの存在をアピールし、個としての自立の承認を得ようとする。
P11
この「融合」体験は、また「没我」的と形容してもよい。「我」を‘something great’に「没」するからである。
P11
しかし、「我」前の「没我」と「我」後のそれとでは、同じ「没我」でも、いわば次元が異なる。「我」後の「没我」は、「我」と「我」前の「没我」との二元相対を脱した、すなわち、「没我」かそうでないかということさえ問題にならない、一元的・絶対的な「没我」である。いいかえれば、「我」も「没我」も包んで越えた、高次の「没我」であって、例の「神秘」的な「融合」体験がその転機となっている。
P12
それは、チャーリィが、その気になれば元のドナー・ベイカリーで以前のような暮らしができたであろうにもかかわらず、あえてそうせずに、なぜ、ひとりウォレン養護学校に身を引いていったのか、ということについてである。(中略)これからニルヴァーナの境に入る彼には、それにふさわしい〈あの世〉が必要であったからだ、と。
この論文を読んで、深く納得しました。
特に「没我」から「我」が生まれ、
しだいに「没我」へと戻っていくところが単なる原点回帰ではなく、
新しい自分に変わっていくというニュアンスがあることを知り、
本当に物語の読み取りや深い理解というものが、
自分にはまだ不足していると気づかされました。
同じであるはずが、なかったのです。
さらに、死にゆく姿であっても、
それが終わりを迎えると同時に、
次、つまり来世を見据えているという意味合いもこの物語には込められていることを知りました。
この「幻燈」というアルバムにおいて、
何度も繰り返される
「終わりからの再生」
というテーマが、やはりアルバムの最後を締めくくる楽曲にもしっかりと反映されていました。
この楽曲が「幻燈」というアルバムに存在する意味を考えます。
この「アルジャーノン」の歌詞においてこの視点は、
要は二段階を経た「没我」の状態にある自分であり、
もう間もなく死んでいくところを描いています。
しかし
同時に「没後」の自分から分離をした自分が生まれており、
死にゆく自分から離れ、「我」を持っていく様を見守っています。
その離れていく自分は、
結果としては同じように、
「我」を持ったあと、
「没我」となり死んでいく。
しかし、
また別の自分が生まれ「我」を持って自分から離れていくというような、
輪廻転生をしている様が表現されていると思います。
それは、歌詞のなかに「いつか」(アルジャーノンの歌詞より引用)という文言があります。
それは、輪廻転生を繰り返す中でも、
同じ死を迎える結果は同じでも、
まったく同じ状態に戻っているわけではなく、
いうなれば少しずつではあれども、
より「高次」であり「没我」の自分となって死んでいくこと
を繰り返している
ので、
純粋な円環ではないということから、
最終的には異なる結果を目指していることがその三文字に表されていると思います。
長い迷路の先に、
「追いつけない人に出会う」
(アルジャーノンの歌詞より引用)
というゴールを祈っていることかなと読み取りました。
当初、この『幻燈』の楽曲たちは、作り手の好みで生まれたものであり、特に深い関連性はなく、単に楽曲が並んでいるだけだと思っていました。
しかし、考察を進める中で、このアルバム全体にテーマが存在していると思いました。
それが、「非現実である幻想を創作する」と「終わりからの再生」という二つの意図です。
この二つの意図を捉えることで、『幻燈』が単なる楽曲の集合体ではなく、有機的で意図を持った楽曲群であると喩えようと思いました。
この意図を掘り下げるにあたり、「ミクロな視点」と「マクロな視点」の二つの観点で分けて考えることが有効だと感じました。
まず、「幻燈」におけるミクロな視点でいうと、「非現実である幻想を創作する」です。
これは、考察をすすめた結果、画家が存在しない幻想を創作している点で、MVなどで描かれている女性は今世では存在していないということです。
それは月と猫のダンスの意図にもかかわってくるかと思いますが、
ヨルシカの物語における輪廻転生において、人間同士で出会えるわけではなく、
動物として出会う意味合いも考えると、
今回の「幻燈」の主人公である画家はなにかしらの事情で女性には会えず、
一生を終えることとなる。
しかし、前世からの記憶により、なぜか頭の中にある女性を描く。
それは幻想であり、存在はしていないけれど、なぜかその幻想に心惹かれ、キャンパスに描いてしまうと解釈してみました。
つぎに、「幻燈」におけるマクロな視点、「終わりからの再生」です。
これを考えるには、まず「玄冬」という言葉を踏まえる必要があります。
この言葉は、ブログ記事を書く前から耳にしていたため、アルバム全体に冬という意味合いが込められているのではないかと感じていました。
実際、このアルバム全体には「終わりを迎える冬」のニュアンスが漂っています。
それを踏まえると、
ヨルシカはこの『幻燈』をもってそもそも物語の「終わり」を迎えさせようとしているのではないか、
と一見すると感じられるのです。
例えば、最終楽曲である「アルジャーノン」を考察していた際に感じましたが、
ヨルシカのアルバムリリースは「アルジャーノン」の物語に似た流れを辿っています。
『夏草が邪魔をする』や『負け犬にアンコールはいらない』といったアルバムは、『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』という二つのコンセプトアルバムを補完する役割を持っています。
この4つのアルバムが表現しているのは、「青春」と「朱夏」という二つの季節の移ろいです。
その後、『盗作』では「白秋」の季節を迎えます。
このアルバム内で「青春」や「朱夏」の曲名が引用されているのは、
これらの季節を経て「白秋」に至ったことを示しているのでしょう。
『盗作』ではこれまでの功績を否定し、
これ以上の成長を自ら止めようとする音楽泥棒の姿が描かれておりますが、
これが比喩のように感じました。
これが「終わり」へとゆっくり向かう兆しであることを感じさせます。
そして『幻燈』です。
このアルバムは「玄冬」、すなわち老いと死を迎える季節を象徴しています。
一見すると、この作品により、物語自体の終焉を描こうとしているようにも思えます。
しかし、違います。
『幻燈』は単に「終わり」を描こうとしたアルバムではなく、その核心には「終わりからの再生」というテーマを持っています。
『幻燈』を作り上げたことで、ヨルシカは単に物語を終わらせるのではなく、
新たなステージ、
輪廻転生の新たな周回へ向かおうとさせている、
そういう風に感じました。
このアルバムは「冬」でありながら、
次の「春」を迎えるためという「目覚め」
をするために必要とした作品なのです。
その意味で、「冬眠」の意味合いがあるかもしれません。
このように
二つの視点があると考えると面白いかなと、
創作的に喩えてみました。
【さいごに】:解放感はひとしお
いやーーーー、長い。長すぎる。
やっと出来上がりましたが、まだ書ききれていない内容もあるので、補足として書こうと思います。
本当にがんばりました。
長すぎでここまで読める人は本当にわずかかなと思います。
でも読めた方には、ぜひあなたが感じた『幻燈』の魅力など教えてくださいな。
お読みいただきありがとうございました。
そんでは。
どどり
以下は記事中の参考文献を載せさせていただきました。
このブログ記事を書くためには、この参考文献がなければ不可能でした。
モチーフとなっているこのは小説とされてますが、いわば芸術作品の意図を読み取り、理解することは僕のようなものには困難です。あまりにも時間がなく、また何年もかけて磨かれたものがないとたどり着けない文章ばかりでした。
本当に感謝申し上げます、ありがとうございました。
感謝
参考文献まとめ
都落ち
①万葉集ナビ
https://manyoshu-japan.com/13462
https://manyoshu-japan.com/13464/
https://manyoshu-japan.com/13463/
②「朝川渡る」試解
小島恵子
https://kdu.repo.nii.ac.jp/record/866/files/KJ00004726250.pdf
①アンドレ・ジッドの『地の糧』
成谷麻理子
https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1777
雪国
①〈論文〉川端康成 『雪國』 読解試論―「鏡」の世界をめぐって―
河村民部
https://kindai.repo.nii.ac.jp/records/7970
月に吠える
①
萩原朔太郎「月に吠える」の思想と方法
長野隆
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/records/2026
451
①華氏451度 [新訳版]
著者 レイ・ブラッドベリ
訳者 伊藤典夫
発行所 株式会社早川書房
パドドゥ
①芥川龍之介作「舞踏会」考證 : ピエル・ロティ作「江戸の舞踏会」(Un Bal á Yeddo)との比較
大西忠雄
https://opac.tenri-u.ac.jp/repo/repository/metadata/363
②「舞踏会」におけるロティとヴァトーの位相
島内裕子
https://ouj.repo.nii.ac.jp/records/7354
③つかのまのユートピアとしての雅宴画とその系譜
吉田朋子
https://notredame.repo.nii.ac.jp/records/602
「風野又三郎から風の又三郎へ」部分より引用
https://tokyoaccent.com/kazeno/karahe.html
②遠くからきた少年 ー宮沢賢治「風の又三郎」をめぐってー
川島秀一
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yeiwa/1/0/1_KJ00004746124/_article/-char/ja
③ヨルシカ 又三郎特設サイト
https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/matasaburou
靴の花火
①宮沢賢治童話絵本の研究 : 「よだかの星」の場合
木村東吉
https://cur-ren.repo.nii.ac.jp/records/765
②宮沢賢治「よだかの星」(<特集>文学教材研究)
太田正夫
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/14/1/14_KJ00010058185/_article/-char/ja
③よだかの星
宮沢賢治
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html
①『老人と海』におけるヘミングウエイの自然 : その二重性とエマソン的自然観
梅沢時子
http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/handle/11334/1119
さよならモルテン
①『ニルスのふしぎな旅』におけるスウェーデンの近代化とセルマ・ラーゲルレーヴの国家観
日本児童文学学会例会(プロジェクト人魚第14 回研究会)
中丸 禎子
https://www7b.biglobe.ne.jp/~nakamaru_teiko/pdf/nils.2014.pdf
作者 セルマ・ラーゲルレーヴ
訳者 菱木晃子
発行 株式会社福音館書店
いさな
①『白鯨』研究 ―物語世界と共鳴する音表現の諸相
濱田みゆき
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/records/2000015
左右盲
①オスカー・ワイルド「幸福な王子」 ――唯美主義運動の〈使者〉としてのツバメ――
輪湖美帆
https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/6812
アルジャーノン
①ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』─(A⇔Ā)=Aの世界─
藤田裕司
音楽と考察の森 ”Groval of Global” 

