ヨルシカ 『又三郎』 補足レビュー

児-4-12 風の又三郎 | 日本の子どもの文学―国際子ども図書館所蔵資料で見る歩み (kodomo.go.jp)

こんにちは。こんばんは。

どどりです。

さて、少し前にアップしました「ヨルシカ 『又三郎』 レビュー」はお読みいただけましたでしょうか。

いつも通り、ここからの補足レビューはちょっと妄想、偏見を交えながら、踏み込んだ内容で書いていこうと思います。

注意事項

1、この記事は大変勝手な内容で書いてますので、適度に流してください。

2、ヨルシカの楽曲が狂おしいほど好きな人こそ読んでください。

楽曲名がなぜ「又三郎」なのかの疑問

はい、まずはこれですね。

モチーフになっている「又三郎」っていう言葉を聞くと、ああ宮沢賢治さんという有名な方が作られたお話ですね、いう回答になります。

一般的なものは「風の又三郎」ですね。

僕は子どもの頃に読んだかあまり記憶に残っていません(読んだような、読むのに疲れたか)。でも、宮沢賢治さんの作品の中ではかなり有名です。風の又三郎っていうのは、風の能力をもった転校生がやってきてなにかするお話、というぐらいぼんやりとしか覚えてません。ということで、今回ですね、ヨルシカの楽曲として「又三郎」と出ましたから、楽曲はもちろんしっかり聴くとしても、

原作ですよ、原作。原作を読まないといけないと思ったんですよ。

ヨルシカの楽曲っていうのは楽しみがあって、ただ楽曲があるわけではなくて、何かしらの思惑があって、というかなにか意図を隠して楽曲を作っているみたいなものをよく感じます。

だから、楽曲を知るためにはそのバックボーンみたいなものを押さえておかないと深くまで分かんないんですよね。それは、アルバム「エルマ」の初回限定版のエルマの日記だったり、アルバム「盗作」の初回限定版の小説だったりです。よく、「楽曲を楽しんでもらえればよくて、小説は付属で楽しんでもらえれば」という風なインタビュー記事を見かけますが、まったくそんなことなくて、付属部分に真髄がかなり入ってる、としか僕は思ってません。というのも、作者のナブナサン自体は他の人に作品を理解してもらうことはまったく求めていなくて、自分が楽しめればいいと思っているスタンスはずっと変わってないと思うんです。だから、推測すると、がっつり仕掛けを作っていて、それが芸術的であればあるほど自分が満たされるんです。芸術って、万人に理解してもらえる必要ないじゃないですか。特にアーティストは分からない人のニーズに答えようなんて思ってないんですね。むしろ、そのニーズに答えようとしたら腐敗とか陳腐な作品の出来上がりという結末を迎えて、自分もすたれていってしまうんです。まあどうでもいいと思われそうですね。

あと、小説家といった文章を書く人って、一つの場面、言葉、モノ、そういう作品の要素に意図を忍ばせてることが多くて、「これはわからないだろう。けど、のちのち意味のあるように、誰にも分からないようにしたい」といったように隠して楽しむ側面があります。だから、読者としてそれを探すのが面白いんですね。はい。僕のレビューで、ヨルシカ楽曲のレビューが多いのはそれが理由です。

「又三郎」のモチーフとなる作品は、1つではない。

大変道を逸れましたが、本題です。

僕は今日、「風の又三郎」を読みました。

今の時代は、本屋さんに行くことなく、Amazonキンドルで昔の作品を読めてしまいます。なるほど、この作品をモチーフにしていることが分かるなあと。歌詞にもある「どっどど どどうど」という文章も冒頭からありました。文章は方言がかなりあって読みづらさはありますが、ニュアンスは分かりますので、ゆっくりとですけど、昔のこどもたちの生き生きした感じが伝わってきます、文章で。風の又三郎の最後はすっと終わってしまい、ああその感じがいいのかな、と思い自分で納得しました。

それで、よくあるじゃないですか、レンタルした映画がよかったとき、ネットとかでこの映画の評価を探してみたり、レビューを読んだり。また、改めてあらすじを文章で読み直したりとかです。僕、それをするんですね。だって、作品をいろんな面から見た方が楽しめるからですね。

そんで、検索していたら、なんか書いてあるんですね。

「又三郎」は風の精である、ってね。

いやいや、さっき小説を読んだんですけど、又三郎、小説の中では「高田三郎」くんですね、確かにちょっと不思議な要素はあったんですけど、もうね、妖精さんと言い切ってしまうのはどうかと思うよとなったわけですよ。そりゃそうですよね。正しいことは正しいんですからね。そんでも気になったので、もうちょっと調べたんですけど、

驚愕しました。

正しいんですよ。

僕が間違っていたんですよ。

何かとはですね、

YOUTUBEでもコメントしました。

どどり
どどり

『かぜの』又三郎を、読んでます! 楽曲のメロディー、歌詞もすごくええなあって思いましたが、 曲名の付け方、天才でした。

はい。

「かぜの」又三郎

なんですね。

あの、僕が思っていた、他のひとたちが思っている風の又三郎って本というのは、

実は2つ存在しているんです。

というのは、

風の又三郎

風野又三郎」があるんです。

この二つ、似ているんですけど、読みました。

(キンドルだったら、無料で読めたのでありがたかった。)

はい、内容が全く違います。

パラレルワールドかと思いました。

また、これが、「風の又三郎」自体を名作にしているゆえんとも思いました。そうなんです。先に結論いうとですね、ヨルシカは楽曲名称を『又三郎』にしているのは、

「風の」なのか、「風野」なのかを断言していないんですね。

すげえって思いました。

この2作品の違いについて他の方のブログを貼っておきます。

「風の」又三郎の方っていうと、実はやや一般人を意味してしまうんです。不思議な感じはするのですが、風を操る能力はおそらくないので。一方、「風野」又三郎はガンガンです。こっちはかなりファンタジーです。「注文の多い料理店」もびっくりなぐらい、迫力がある描写、ストーリーです。だから、この状況を吹き飛ばしという気持ちを表現するなら「風野」なんです。(でも、楽曲名が固有名詞、というより個人名ってちょっとね・・・。)

そう考えていると、ナブナさんはこの「又三郎」は現代の鬱蒼とした社会の状況を吹き飛ばしてほしい、そんな思いを込めているのもあって、どっちかに断言してないんですね。

そこは、聴いた人の捉え方、解釈にゆだねているんだろうということにしましょう。

「又三郎」自体の歌詞について

ヨルシカの「又三郎」が生まれたのは宮沢賢治が著したときとは時代が異なる。だから、イイタイことも違うかなと思ってましたが、どうでしょうか。まずは、Twitterとかでも見つけた、「青い胡桃~~、酸っぱいかりん~」のところの本来の意味と全体の考察について、調べていたら、ありました。

風の又三郎―物語に隠された真実― | 幽明日記

読んでいて、凄いと思いました。そうか、そういう解釈もできるんだなと。僕はこういう解釈は参考にします。あと、この部分って、原作と違うんですよね。「風の又三郎」では、

青いくるみもふきとばせ 

すっぱいかりんもふきとばせ

                引用「風の又三郎」宮沢賢治 青空文庫

なんですけど、

青い胡桃も吹き飛ばせ  

酸っぱいかりんも吹き飛ばせ

                引用「又三郎」ヨルシカ

となっていますね。これを見たとき、ヨルシカの方がかなり強めの語調な感じがします。それも考えているのかな。気になるのが、「すっぱい」を「酸っぱい」にしたこと。ナブナさんわざとかなと思ってしまいます。だって、二つの歌詞の頭文字が、「青酸」でしょ。あまりブログでは書かん方がいいので書きませんが、この「風の又三郎」では、山椒を使って川の魚をとる描写があったんですね。それを、言葉でいうと、「毒もみ」っていってます。そこで、調べましたが、こんなん出てきました。

「日本で禁止されている漁法」があり、山椒を流すのとあわせて、「青酸」があるんですね。ここ漢字にするって、凄い意味があって、『分かっている』ということかな。そして、「毒もみ」について宮沢賢治さんと関連ないかなと探してると

毒もみのすきな署長さん

こ、これは。。。なにかしら意味がありそうでしたね。ここまで書いてみて、より一層、激しい意味をもつ歌詞に思えてきますね。宮沢賢治さん、農業と科学に秀でた人みたいですし。

こういうのを踏まえると、なんか違った風に思えて面白いなあと思います。

目次

最後に

久しぶりに記事を書いていたら、もう深夜2時前になりました。

「又三郎」という楽曲から、その原作に行きついたり、宮沢賢治というアーティストの非凡さの一部を垣間見た感じがしました。

宮沢賢治さんの作品って、よくロックアーティストの楽曲にでてきてて、

ゴーイングステディの『銀河鉄道の夜』

きのこ帝国の『春と修羅』

とか。凄いよなあって思います。

とまあ、長々と失礼しました。

もうすぐ、ヨルシカのライブツアーもありますね。僕は参加はできませんので、DVDとかを楽しみにしようかなとおもいます。

そんでは。

どどり