ヨルシカ「左右盲」と「チノカテ」について

こんにちは、こんばんは。

どどりです。

9月ももう終わりに近づいてますね。

9月中にとりあえず1本ほど記事を書けたらなあと思いながら日々を過ごしていたところ、あらま28日です。

リコリスリコイルの最終回を観終わって、アマゾンプライムで最初から一周しなおしたの昨日の廃人としての生活も貴重だったなあと翌日に思うことも大切だと暗示をかけます。

ヨルシカ「左右盲」、「チノカテ」がリリースされてます。

はい、では始めます。

すでに、ヨルシカさんの楽曲「左右盲」と「チノカテ」が配信され、YOUTUBEでも観れるようになってます。

いろんな方が動画で解釈、ブログでも解釈をしておられるので、この時点での記事っていうとやっぱりおそ杉であるかと思いますね。

需要はないと思います。

なので、ちょっと趣向といいますか、方向性を変えたものを書いてみましょう。

ということで、いつも通り原作を読みましょう、ということです。

今回の楽曲ではモチーフとして、

◎「左右盲」  → 『幸福な王子』

◎「チノカテ」 → 『書を捨てよ、町へ出よう』、『地の糧』

のようです。

ちょっと、幸福な王子は僕が子供の頃に読んだ童話絵本の記憶がうっすらあるので、原作は読まずで対応します。

今回は、「書を捨てよ、町へ出よう」と『地の糧』を読んであれこれ妄想していこうかと思いますので、よろしくお願いいたします。

では、まずは基礎情報を他の人のブログで読んでおいてください。僕のブログでは基礎情報を書きませんので。

参考ブログなど

左右盲【ヨルシカ】歌詞の意味を考察!映画のストーリーとリンクした感動の歌詞を読み解く – FRAMU.Media
チノカテ【ヨルシカ】歌詞の意味を考察!文学作品オマージュシリーズに込められた想いとは? – FRAMU.Media

「書を捨てよ、町へ出よう」を読んでみました。

では、はじめてゆきます。

寺山修司さんの「書を捨てよ、町へ出よう」です。

これは「チノカテ」の楽曲内の歌詞としてもありましたね。

ですので、この作品の中にもなにかキーセンテンスなどがあるかもと思い買って読みました。

とりあえず、第一章「書を捨てよ、町へ出よう」のみの構成はこんな感じです。

  • おやじ、俺にも一言
  • 青年よ大尻を抱け
  • 月光仮面
  • 足時代のヒーローたち
  • 歴史なんか信じない

このような5個の副題(?)に分けて文章が書かれてますが、ところどころ性的な表現があって、ある意味分かりやすい文章になっているのかなあと思いました。

内容を読んでみても、「書を捨てよ、町へ出よう」についての真意は書かれてませんでした。でも、それはテーマが表現されていないという意味ではないと思いますので、解釈をしたり、ちょっとした文章の中からひっぱってきたりが必要かなと思います。

人によって捉え方はあると思うんですけど、今回はヨルシカ関連の情報のために読んでいるのでそのセンサーをはってみると、なんだか高みといいますか、「美」だったり「良いもの」というものを諦めてしまう行ない(文章のなかでは『山椒魚』のくだりが使われてました)について批判的に書いてありました。それそのものを手に入れることが大切であるとはいってなくて、そこに向かっていく意識自体がなくなっていることについて作者が「そうではいけない」と言っている気がしました。2022年の今でも、そういうのってありますよね。また、「月光仮面」の部分については、確かに納得しました。やはりこの時代でも、「正義」っていうものがあやふやなもので、一方からの視点でしかできないアブナイものとして表現されていたから「そうそう!」って思いました。しかしその中でも、戦争についたの「正義」は複雑であるとして、普通の「正義」とは異なると書いてあったのは納得しました。

その文章を踏まえて、「書を捨てよ、町へ出よう」というのは、自分の殻に閉じこもっていてはなくて、外に出ることでもっといいものを探しに『いこうとする」ことにキーセンテンス的な意味合いがあるように僕は感じました。でも、この本の一章だけでは寺山修司ていう人を掴めそうになかったので、別途読み進めようと思います。

「地の糧」を読んでみました。

はい、次はアンドレ・ジイドの「地の糧」です。

地の糧の本はアマゾンなどでかかったり、値段が高騰していたのでどうしようかなと考えてましたが、なんとか中古で探したところありましたのでそれをぽちっとしました。

この「地の糧」を読んでみたところ、「チノカテ」が表現したかったことがこれを読んで納得した気がします。

まずは構成。

序文

第一の書

第二の書

第三の書

第四の書

第五の書

第六の書

第七の書

第八の書

結論のかわりに 讃歌

反歌

一九二七年版の序文

こういう風になってます。

この「書」っていうのは、ジイドが架空の人物であるナタナエルに語りかけるような文体でつづられている文章です。ちょっとナタナエルと聞いても分かりにくいですが、要はジイドは読者に語りかけることをこの本でしています。それも、愛情をもって、熱心に、色鮮やかな情景描写を使いながら文章で語りかけている、いや語りかけているというよりも、正面から諭しているような感じです。

この地の糧では、書が8つあり、それが執念のごとく綴られていますが、終盤の「反歌」でその「書」たちを否定します。

ちょっぴり引用します。

・・・そしてきみはわたしの本を読んでしまったら、この本を捨ててくれたまえ。ーーそして外に出てくれたまえ。わたしはこの本がきみに外に出たいという気持ちを起こさせてくれればいいと思う。

・・・わたしの本がきみにこの本そのものよりもきみに興味を持つことをおしえてくれればよい。ーーそれから、きみよりもほかのあらゆることに興味をもつことを。

佐藤正彰.世界文学大系50 ジイド.㈱筑摩書房.昭和38年.P327

ナタナエルよ、今こそ、わたしの本を捨てたまえ。これから解放されたまえ。私から去ってくれたまえ。・・・・わたしのうぬぼれていた君に対する愛情が、あまりにも私を占めすぎている。・・・

ナタナエルよ、わたしの本を捨てたまえ。そんなものに満足してはいけない。きみの真理が他人によって見つけられるかもしれぬなどと思ってはいけない。どんなことよりも、こういうことを恥じたまえ。たとえわたしがきみの食糧を探してやったとしても、きみはそれを食べるほど飢えはしないだろう。わたしがきみのベッドを支度してやったとしてもそれに眠るほど君は眠くはならないだろう。

わたしの本を捨てたまえ。人生を前にして取りうるさまざまな態度のうち、ここでは、これが一つだけしかないということを、よく考えてくれたまえ。きみの態度を探したまえ。ほかの者がきみと同じようにりっぱにしゃぺったとしても、君はそんなことをしゃべってはいけない。ーーきみと同じようにりっぱに書いたとしても、きみは書いてはいけない。きみは自分の中では、きみ自身のほかにどこにもないと感じることだけにしか、執着してはいけない。そしてみずから、焦ろうと、しんぼうしようと、ああ!人間のうちでもっともかけがえないものを創り上げたまえ

佐藤正彰.世界文学大系50 ジイド.㈱筑摩書房.昭和38年.P386

このように、しっかりとした文章を読者に向けて書いたにも関わらず、「捨てる」ように言ってます。

「書を捨てよ」というのは、単に本を読むのを辞めろ、とか本を読むことに価値はないと言っているわけではなく、ジイドが読者に対して綴った書を読んだ後に捨てろと言っているということです。

それは、このジイドの8つの書、かなりボリュームがある内容ですが、そこでの言葉、文章に読者が縛られ、決められた軌道に従うような考え方、興味関心、価値観、芸術観、そして人生になってはならないということです。また、解釈によると、ジイドが書いた「地の糧」ですが、そのジイドもナタナエルであり、読者であるという意味合いは捨て切れません。それは、自分が作ったものに縛られ、ずっと留まってゆくことになります。そこで、もうちょっと引用します。

普通、人々はこの青春の書によってわたしのことを判断して、まるで『地の糧』の倫理がわたしの全生涯の倫理そのものであるかのように思い、わたしが若い読者に「この書を捨てて、わたしから去ってくれ」という忠告を与えながら、わたし自身がまず第一にその忠告に従わなかったように思っている。そうではない。わたしは『地の糧』を書いていた当時のわたしから、すでに別れてしまったのだ。

佐藤正彰.世界文学大系50 ジイド.㈱筑摩書房.昭和38年.P387

とのことです。

あと付け加えると、この『地の糧』を読むことをNGとしているのではなく、読んだ上でそれを捨て、自分の興味となるものを探しにでてほしいという意向が読み取れます。

これを踏まえて、ヨルシカの「チノカテ」、「左右盲」の解釈に行きます。

「左右盲」と「チノカテ」について

まずは、「チノカテ」です。

この楽曲はなんとなく「ノーチラス」に近い感じがしました。というのも、「チノカテ」が上で書きました「地の糧」の意向を含んだ楽曲であると考えたからです。

「ノーチラス」については、前に書きましたエルマレビュー、月光再演レビューのところでもまとめてますが、エルマに対してエイミーが「目を覚まして」と言っている楽曲です。

エイミーの模倣に縛られているエルマに対してです。

だから、「エルマ自身の才能を発揮してほしい」という思いがのった楽曲だと僕は解釈しているんです。

それに対して「チノカテ」では、主人公が「書」にとらわれている状態から抜け出してほしいという楽曲だと思います。

ここでの「書」っていうのは、物語の世界であったり、芸術のことだったりかなと思いますが、それはアルバムが出たら分かるのかなあと。

MVで考えると、主人公が描きたい絵(芸術)なのかな。

その絵を描きたいために、それ以外のものをそぎ落として、いろいろと落とし物をしている。

それに気づいてほしいというようなメッセージがあるんじゃないかなとこの「チノカテ」からは思いました。

そして、「左右盲」です。

「左右盲」の解釈はとくにYOUTUBEで多かったですが、

ここでは本に沿ったことを書きましょう。

「左右盲」はなんだか、「春泥棒」と同じ形式の感じがしました。というのも、表面と裏面があるというダブルミーニングに見える楽曲ということです。結構妄想入ります。

まず表面は、幸福の王子をモチーフにした楽曲に見えるということ。これは、ヨルシカのストーリーを知らない、MVも観ていない場合において楽曲に抱く印象です。そこに男女の雰囲気がなく、やりとりもなく、主人公がだれかは決まっていない「君」を思い浮かべて、自分の体の一部、心の一部を分け与えている。この点では、ある意味「地の糧」と同じように、だれか分からない架空の人物を想定しているんですね。

次に裏面は、MVにも表現されている男女の別れを感じさせるような物語、ヨルシカのストーリーが感じられる楽曲の印象です。今回の「左右盲」も多くはこっちの印象になると思います。この楽曲の印象の場合、大切なひとがどんどんと自分から離れていく。と思ってましたが、それはMVの見た感じであって、この楽曲ではすでに大切なひとと別れていて、でもそれにとらわれていて、目の前に大切なひとがいるようにイメージして、像を映し出していると考えても面白いかもしれません。「花に亡霊」もうそうでしたね。

あと、

ちょっと前に書いたツイートでは、表面と裏面とを意識せずに書いてました。奥さんとツバメとは同じ面で存在しないからです。なので、誤っていますね。

ただ、奥さんとこのツバメがどんな意味を持っているかっていうのは多分近いものがあると思ってます。それは、奥さんの髪の色とツバメの毛並みが同じ青色だからです。となるとどうなるか。

ちょっと不思議な解釈ですけど、ツバメは確かに青色ですが、この絵ではサファイアも青色です。このサファイアも意味があると考えると、

奥さん   → 主人公と結婚していたが、主人公が芸術に熱中したため、愛想を尽かし出ていく。

サファイア → 主人公の体にある宝石の一部だったが、架空の他者を想ったため、ツバメを使って手放す。

となるかな。割と綺麗に似ていましたね。どうでしょうかね。

最後に

あれこれ書いてきました。

まだアルバムが出たわけではないので、あれなんですけど、なんだか自分なりには整理できたかなと思います。

眠たいです。もう日を超えてしまい、0時42分です。

ということで、なんとか9月の記事は書きました。

10月も頑張ります。

そんでは。

どどり

おまけ:「左右盲」のMVについてツイート、共感が得られない(笑)

おわり