ヨルシカ 『老人と海』レビュー

こんにちは、こんばんは。

どどりです。

8月も半ばをすぎましたね。

雨はまだ降っていて、なんだか映画の「天気の子」みたいだなとぽつんと思ったりしてます。

ちょっと眠いですけど、記事を書いていきます。

よろしくお願いしまーす。

ヨルシカ 「老人と海」の配信リリースがありました。

8月の18日ですね。ヨルシカの配信シングル「老人と海」がリリースされました。

ヨルシカ:The Old Man and the Sea

この楽曲も少し前にリリースされた「又三郎」と同じく文学作品のオマージュをした楽曲になっているようです。

ということは、あれですよ。作品を踏まえて楽曲をみてみないと、ヨルシカが乗せようとしている意図だったりを拾えなかったりします。アルバム「エルマ」だったり、アルバム「盗作」だったりは初回限定版を買わないとストーリーがわからないですからね。

僕はかなり口酸っぱく書いているんですが、やはりヨルシカはその傾向が顕著なので、じっくり元になっている作品があるのでしたら、押さえておきましょうね。

ということで、今回押さえておかないといけないのは、ヘミングウェイ作の「老人と海」という小説ですね。ノーベル文学賞にもなった作品ですね。

だから、「なぜヨルシカがオマージュの対象として、この作品を選んだんだろうか?」ということは意識しておきましょうね。

小説「老人と海」についての読書感想文

この歳になって、夏休みの課題として読書感想文を書くことになるとはおもってませんでした。

でも、これを把握する方法としては、こんなかんじがいいかなと思います。

あ、あらすじなどはネットで検索してみたり、他のブログで丁寧に書いている方を参考にしてください。あらすじを書くのは苦手といいますか、面倒にしか思えないんです・・・。

↑「老人と海」のアマゾン広告です。

さて、書いていきます。

「老人と海」を読んでいて思いました。老人はもう望みを失って、老いてゆき、死を待つような人生を送っています。かつては、充実した生活だったため、それと反対な現在を生きている様子が書かれてます。妻もなくなり、かつては腕っぷしも強く立派な漁師だった老人も、野球の方にばかり興味をもっていたり、漁に出てもなにも成果を上げてこない。そして何度も出てきますが、「アフリカの夢」、「ライオンの夢」です。老人はまだ小さいころに横帆船に水夫として乗り込んでいたとき、アフリカでみた景色、白い砂浜、ライオン、褐色の山々といったものを綺麗な思い出として、ずっと持ち続け、老人になっても夢で見続けている。それは、今回のカジキとりに行く前もですし、漁の最中にでもですし、カジキの残骸をもって戻ってきたあと、小説の最後の文章でもこの夢を見ている。老人にとって大好きな、愛している思い出であり、その思い出は現在になってどうなっているかを問わず、老人の「理想」、「心の拠りどころ」になっているんですね。ですが、その「理想」に対して、老人が向かい合って戦っている「海」、そして、老人の新たな「心の拠りどころ」になりつつある少年という二つの存在があります。「海」といってもこの老人にとっては、海の構成要素に、カジキ、サメといった命を削って戦った相手が含まれます。この作品を読んでいて、翻訳の方も気を付けられたのかなと思うのは、老人はまったく「海」を憎んでいないこと。海の構成要素ひとつひとつに触れることは、なんだかじゃれあっているかのように思えました。命を削るような場面でも、まったく悲壮感などなく、躍動感があり、きりきりとした生の感触が伝わってくるような文章であったり、情景描写ばかりでした。老人にとって、今回大物である獲物を捕りに行ったのは、「男の誇り」、「漁師の本分」であったとしても、それは当初のことで、そんなことよりも「海」と向かい合ったことで自分が生き生きとしたことに気づかされたのではないかな、と。

ヨルシカ 「老人と海」楽曲について

はい、次はヨルシカの楽曲についてです。

ヨルシカの楽曲については、解釈がいろいろあるかなと思うので、正解はわかんないですが、スタンスを明らかにしておきます。

この方が適切に表現してくれてたので、ツイート貼るだけでした。

えっと、まずこの作品はオマージュです。オマージュっていうとわかりづらいんですが、もうちょっとはっちゃけていうと「パロディ」です。そんで、ここで気づいていただきたいのは、作品の登場人物ご自身が、自分のことを「パロディ」で演じないですよね。つまり、オマージュだろうとパロディだろうと、実際全く関係のない人がアクションをすることで、そのアクションから「あ、これは老人と海のパロディをやっている」と気づかせるという意味合いがあると思うんですね。だから、このヨルシカの楽曲に出てくる人は、老人でも少年でもないことになります。この楽曲での二人は、ヨルシカのAL「エルマ」でもありましたし、AL「盗作」でもありましたように、輪廻転生しつづけている二人ということです。立ち位置からすると、この楽曲「老人と海」の主体である人はエルマっぽいひとで、主体である人から見られている人がエイミーっぽいですね。(盗作だと、エイミーがおじさんで、茶色い目をした妻とこれまた茶色い目をした少年がエルマですね。)あと、小説を読んだ方はもういちど読んでほしいですけど、老人も少年もだいたい裸足(はだし)であると書かれてあって、なんだか靴紐靴紐って歌詞にあるのはあってないなあと思わされます。むしろ、漁師って靴紐のある靴を履くイメージがあんまりないや。長靴とか裸足、だなああ。

このふたりが海の方に歩いていくところが楽曲の情景なんですが、気になったことは、やはりSEですかね。ラスサビ前ぐらいの波の音はわかりやすいんですけど、その少し前から、なんか音がなってませんか。僕はあれ、水に潜っているときの音だと思うんですよ。

【ダイビング ASMR】BGMなし、水中呼吸音と映像のみ。まるで潜っているかのような伊豆の海動画です。

なんでこの水の中の音をSEとしていれているのかはちょっと分かりませんが、海(またはお魚)が、海に歩いてきている二人を見ているということなのかな。

歌詞について。もっと遠くへ、、もっと遠くへという表現を繰り返し使っています。「老人と海」では、もっと遠くに思いを寄せているかといったら疑問です。別に少年が思っているわけでもないし、老人が思っているわけでもないです。だから、これは、「老人と海」というストーリーを知った二人が、現実に辿りつくことができる、できた「海」に思いをよせたとおもいきや、自分達の想像力では及ばないぐらい、もっと遠くに意識を飛ばしてゆきたい、という歌詞になってます。それの一つとして、小説の中で老人が夢で想像していた「アフリカの夢」のような存在も歌詞で歌ってます。これは、やはり次のアルバムが出てからでないとどういう意図かはわかりませんが、方向性はこんなかんじかなと思います。

ヨルシカ 「老人と海」のジャケットについて

ジャケットについては、Twitterであれこれ書きましたので貼っておきます。

小説を読んだら分かりますが、カジキの骨でしたね。

あと、これは浮かんでいる赤い花についてです。

花に詳しくないけれど、赤くて、アフリカに咲く花で、サファリっぽいもので検索してみたらこんなのが出てきました。百日紅の花でもないですからね。

と、

と、

と、

思ってましたが、

https://m-plant.shop-pro.jp/?pid=126276247

↑「m-plant(エムプラント)植物と暮らす」サイト様≪https://m-plant.shop-pro.jp/》の画像です。

似てますよね。

これもリューカデンドロンの一種なんですけど、AMYと書いてあるようにいいまして、 リューカデンドロン・アミーというらしいですが、

他のサイトもみましたら、

「エイミー」

とも呼ぶらしいです。

どどりはすぐに、アルバム「エルマ」のエルマの日記を見ました。

冒頭部分にですね、エルマとエイミーを英語表記で書いているページがあるんですね。

確認したところ、

エイミーのつづりは

「Amy」でした。

一致ですね。

この花がなにを示すかは、深夜1時の僕のあたまでは想像がつきませんでした。

時間をおいて、考えてみます。

最後に

ブログの内容は書きながら考えようと思ってましたが、

お花のやつですね、

突然の一致で、ちょっとあせってます。

こんな一致あるのかなって思います。

まあ、長々と書きました。

ごくろうさまでした。

そんでは。

どどり