ヨルシカ 「盗作」補足レビュー

今回は、数日前に書きましたヨルシカの新しいアルバム「盗作」のレビュー記事の補足を書ければなと思ってます。

どどり
どどり

一通り、全体像と1曲1曲についての紹介程度の内容を1日で書けましたので満足はしていましたが、やはり書き足らないと思うことがあったようですので、僕が思うところをつらつらと書いて行こうと思います。読みづらかったらごめんなさいね。

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この補足レビューを読まれる方へ

一、ヨルシカ「盗作」の初回限定版の小説は必読です。

二、作品に向き合うための軸がぶれるので、作曲者の背景とか、前作までのアルバムのつながりといったことは「余分な情報」とみなします。

三、前項の一、そして二については、適当に捉えて聞き流すこと。

この三つを前提に、以下、述べます。

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あらすじ

他のブログ、そしてnoteで細かく書いている方のものを読んでください。僕があまりあらすじを書く必要はないと思いますので。それでも、簡単にまとめると、この作品は一人の狂った作曲家が破滅に向かうことを描いている物語である。ただ、狂っているとか、破滅とかということは一般的にそうであって、その人間にとっての「救い」であったり、個々人の「オリジナリティ」と持った考え方を踏まえない表現であるので、この一文が的確にまとめているとはあまり思わない。そんなに浅い物語ではない。

この作品で考えさせられたこと

「盗作」と「オマージュ」とは、意味の違うものと思われているが、本質的には「オリジナリティ」というものがこの何年も経った現在において、「盗作」と捉えられるものと「オマージュ」と捉えれるものとの双方にはないと考えられる点には、確かにその通りだと思った。乱暴な例えに思えるが、少し前、僕の好きなバンドのベーシストの方がいらっしゃって、その方が、ギターを弾いてるとかベースを弾いてる時点で、それはパクリだと言っておられたのを思い出した。自ら、何も考えずに小学生のときとか、また中学生のとき、はたまた高校生になったときにギターを弾き始めることはない。それは、テレビでバンドが演奏していたり、近くのお兄ちゃんのライブを観たり、駅前で弾き語りをしている女性を観たり、YOUTUBEで弾いてみた動画を観たりなど、すでにその行為をしているヒト、モノ、͡コトを我が知覚して、ギターを弾くということを「始めた」とする。それは、自発ではなく、反応である。そういった点で「オリジナリティ」という面が、ギターを弾き始めるスタートラインからもう無いのである。スタートラインからもう無いということ、それを自覚することもこの作品では男がどこかのページで言っていたと思う。それがこの男にとっては「作曲」、つまり楽曲をオリジナリティを持って作り出すというスタートラインでもはや誰かのパクリである。パクリというスタートラインから走り出したものは、どこをどういってもパクリということを論点からずれているとは思うが、そう僕は思う。

この「盗作」という作品を読んだあと、多くのブログとかnote、あとTwitterのツイートを観ていましたが、なぜだかあの話題が一切ないことを不思議に思った。おそらく、まだ小説を読んでいる人が少ないからかと思ったけれど、少し書いてみる。あの話題とは、オリンピックのシンボルマーク(エンブレム)のことである。この「盗作」では、男が国家の祭典のためのテーマソングを担当することになり、そのインタビューの時に「盗作」をしていたこと、そして自分の半生を話しつづける。そういった内容のため、まさに現実にあったオリンピックのいざこざを僕は思い出しました。オリンピックのシンボルマークについては、選抜をされたときに確かに格好のいいマークと思った。アルファベットの「T」のマーク、それはTOKYOを表しているように思える。

また、右上の赤丸は日本の国旗「日の丸」を表現している。そして、全体的に白地で、スマートな印象を受ける。僕は、現在決まっている青のシンボルマークはあまり好きではない。こちらの方が、印象に残る、そんなマークだと直感的にそう思う。それで、この騒動では、右の黒地のマークを所有しているベルギーの劇場から申し立てがあり、ほぼ一方的に左のマークを「パクリ」として退けられた。果たして、これは盗作だろうか、ただ似ていただけだろうか。そんな声ばかり聴こえていた。そこでの話題というものは、誰が作ったのか、大元のデザインは何か、そして作者の他のデザインはどうか、経歴はどうかといったあら捜しばかりの報道が広がっていた。一度は何万もの応募からナンバーワンに選ばれたはずのデザインが、あっという間になくなっていた。負のイメージを、レッテルを貼られてしまったのである。ここで思うのは、そういった変な周囲の声はあったとしても、純粋に、ステレオタイプ的な考えというものを持たず、選ばれたデザインを今見ても、僕はかっこいいと感じたことは確かだなと。作品でもあったように、作者がたとえ犯罪者であっても、その作品自体の良さとか本質は変わらない。その本質は変わらないということは、そのもの自体が変わらないということもあるが、そのシンボルマークが純粋な作者の「オリジナリティ」で作られたものであっても、ベルギーの劇場ロゴを何年も前に見た後に作ったあとであっても、スタートラインではなにかを見ての発想ということは変わらないのだとも作品の中では言っていると思った。本当に「栓の無いこと」だなあと思う。今になって、この「盗作」という作品を読み終えたあとになって、そう思う。それが一番の感想です。

うさぎのガラス細工について

少し前に書いたブログ記事では、曲名の漢字を間違えていた。「鳶(とんび)」という字を「鷺(さぎ)」と空目をしていた。とても恥ずかしい思いをして、それと同時にこれはネタになると思い、ブログではその字に二重線を引いて晒したままにしている。また、Twitterでもだれに対してというわけではなく周知をしてみた。間違えることはつまらないことではないと思う。そこを観たい人、喜んでくれるひとは何万人に1人ぐらいはきっといると信じることにしている。

さて、それで漢字間違いをしながらも、「鷺」のこと、そして「詐欺」の由来について調べてみた僕は、自分が誤った理解をしていたことに気づいた。「詐欺」の由来に「鷺」は出てこないこと。「詐欺」の由来は因幡の白うさぎといって、山陰地方の昔話が大元にあるらしい。僕は山陰地方の出身であるため、もちろんこの昔話は知っている。端的にいうと、白うさぎが島に渡りたいからといって、海にいる鮫を騙し、その鮫たちの上をピョンピョン飛んで島へ渡る。その途中だったか折り返し地点だか覚えてはないけれど、騙したことがバレて鮫に襲われ、白うさぎの毛とかを毟られ、ひどい怪我を負ってしまう。(サイトを見てみると、サメではなくてワニらしい。)その怪我の治療をしたのが、大国さんだったという。山陰地方では”国引”神話や”だいこくさん”という話は小さい子でもよっく聞かされて育ったもので、かなり身近な存在のようにも思えた。因幡の白うさぎはお土産の名前だけではないということを言いたい。さて、少し脱線をしましたが、この「盗作」という作品の中で出てきたガラス細工として、なぜ、ネコでなく、犬でもなく、ペンギンでなく、ワニでもなく、ウサギだったのかはこの漢字間違いをしたからこそ、疑問に思うことになった。僕も今noteで自分が思いつく物語を書いたりをしているが、そこで出てくる情景、人、物というものはなにかしらの意味があって然るべきと思う。その場所にあったものであるとか、物語の流れに沿ったものであると考えるべきで、もちろん例外の方が多いかもしれませんが、そういった登場してくるものにはきっと意味があると思った方が楽しいかと思う。ぜひ、自分なりの解釈はそういった事象にまで目を向けてみるべきだと思う。

薄茶色の目、男の分かれ道について

これは早くも前提条件に挙げた二番目に抵触してしまうかもしれないが、とりあえず書く。薄茶色の目をしているのは、この「盗作」に出てくる人物としては、少年と、男と結婚し、すでに亡くなっている妻の2名である。この薄茶色の目という表現が小説内で多用され、キーワードに思わせたいという意図が感じれた。その薄茶色の目であることを、偶々なこととするのではなく、亡き妻が「生まれ変わりを信じていた」という文があったので、亡き妻が生まれ変わり、少年となって再び自分の前に表れたということと推測できる。他の作品について、生まれ変わりのことをテーマにしているようだが、それはまた別の機会にじっくりと考えてみる。なぜ、生まれ変わりをして、男の前に現れてきたのか。ただ、運命だからという表現で終わらせるべきだろうか。今、直感で思いついたこと。亡き妻に再会したときと、少年に出会ったときとの共通するものはなにか。

亡き妻との再会は、男が空き巣という仕事に毎日を費やし、心を失っていたときに市民ホールでピアノを演奏する妻に出会ったところが再会のところ。一方、少年と出会ったときというのは、妻がこの世を去ってから何年も経ち、国家祭典の前の時期で、妻の命日を不意に意識していたときであった。この二つの時点を考える。まず、前者のときでは、妻と出会ったことにより、男は空き巣という仕事から足を洗い、音楽にのめりこみ、妻との生活をしていく。とてもプラスな生活に変化したと考えられる。一方、後者では、男にとって自分が美しいと思う「破滅」への道を進み、その達成の少し前に少年に出会っている。もしかすると、男は少年との出会いにより、「破滅」への道を思いとどまることができた未来があったかもしれないと思った。もし、あるとしたらそれはどこだろうか。少年と男との考え方の相違の場面と思う。少年は「汚いもの、憎いものは壊れるべきで、それが壊れるときは美しい」と思いながらも理不尽な行いを他人に責めてほしいという気持ちを持つ一方、男は他人に自分をどうにかしてもらいたいと思うことを気に入らず、自業自得の考えが全てあるとし、少年の甘さを叱責する、そんな場面。もしここで男が少年を叱責すると同時に、自分の今から行うこと、今まで行ってきたことを省みて、音楽泥棒であったことを告白せずに作曲家の道を退く道もあったように思える。だから、僕としては、ここが本当に最後の分かれ道であったように捉えている。男は音楽泥棒であると告白した後、自分の中の「満たされないところ」が埋めることができたとは一切書いていない。男は愚かだと思う。結局、作り上げてきた作曲家としての破滅という、自分だけが作り上げたいわば作品を生み出せたはずなのに、満足したという気持ちは一切書かれてもないし、表現もされてない。今回も、満たされなかったという結論になったのだと思う。その後の話は小説の中では書かれていない。

ここまで文章をまとめてみたけれど、男が満たされなかったという結末は迎えたけれど、実は男の満たされなかった「穴」を満たすものがそういえばあったと気づく。それが、初回限定版に入っていたカセットテープ「月光ソナタ」。このテープはどんなものかというと、男が少年に「月光ソナタ」を教えているときに、不意に思い立って男が少年のその演奏を録音したものである。この音源が、男にとって満たされるものとしてなったというメッセージではないかなと思う。男は確か、自分で「月光ソナタ」を弾いても満たされなかったと小説内で述べられていた。なのに、このカセットテープでは満たされたというのはなんでだろうか。それは、男が少年に「月光ソナタ」を教えていたことにあると思う。男は「月光ソナタ」を亡き妻から教わった。亡き妻から「月光ソナタ」の譜面をもらい、練習をみてもらった。その時の思い出は、男にとって確かな『思い出』になっていたのだと思う。それを立場は逆となった状態で、生まれ変わりに思えた少年に教えることで、楽しいとか居心地がいいとかではなく、「満たされた」と感じれたというのが一番なのだろうかなと思う。それは、男が破滅の道へ落ちたあと、満たされなかったとうなだれたあとに、少年からプレゼントをもらい、少年と過ごした時間、ピアノを教えていたときのことを思った上で、初回限定版の「穴」の中にカセットテープを入れることになったのかなと思う。

以上

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