ヨルシカのAL「幻燈」の詩学・補足レビューです。以前に発表したレビューの補足記事です。
今回は、「幻燈」楽曲の追加考察に踏まえ、今までにない「宮沢賢治」とのつながりを考察した部分がメインとなったブログ記事になりました。
あらためて、こんにちは。どどりです。
前回の「幻燈」レビューについてはかなり何冊も本を読んで、
ネットから見つけ出した論文も読んで、
あれこれ考察をしながらのいわば創作に近い記事を書いてみました。
なので、すごい時間がかかってしまったなあと思いながら、自分でもあれを読み返すのはちょっとしんどさを感じます。
ただ、要素は各テキストを読んで、かつ多面的に調べないと導き出せないものがほとんどで、むしろそのように作られていないとああはならないなと何度も思いながら文章を作ってました。
そして、いつもの補足レビューをゆるゆると書いていこうと思いましたが、これまた調べだしたら出るわ出るわで驚いてしまってます。
そんなこんなで時間がかかっての補足レビューとなりますが、気長に書いていきます。
あと、これを書いているのが2025年の6月なんですが、ヨルシカがリリースしているアルバムの初回限定版が再販されているみたいです。
そのなかでも、「だから僕は音楽をやめた」、「エルマ」のテキスト、つまり木箱にはいっている手紙とエルマの旅行記のような日記がホームページでみれるようになるようです。
この二つのアルバムのレビュー(「だぼやめ」は挫折)を書いたとき、書き終わって1年の季節を経ていくなかで思っていたことです。
思ったより、これらのテキストを読んでいないリスナーさんが多くて、正直僕のブログ記事を読んでもすぐ帰っちゃう人が多かったんですね。
滞在時間というやつですね。
特に僕の書いていた記事っていうのが、一般リスナー向けでは到底なく、テキストを読んでいるややコアリスナー向けの記事にしていたんですね。
というのも、記事で語りたいことは物語の空気だったり、人物がどのような動きをしているとか、どんな心情なのか、この楽曲に意図はなにかあるのかといった、テキストさえも読んでいて感じ取れるか、どうかレベルの話をつらつら書いていたんですね。
だって、そっちのほうがおもしろいなと思っていたんです。
だから、この初回限定盤の再販っていうのは、もうすこし当時書いた記事が読まれるきっかけになったらいいな、僕の書いてたことが少しでも理解してもらえたらとか、指摘してもらえるのかなとか、そんなことを考えます。
さて、そんな別アルバムをこの補足レビューで書くにはいかがなものかと思われてしまいそうですが、まあ、この補足レビューもそうであって、「幻燈」というアルバムにとってのそうであるのであって、まあ問題ないと思っているんです。
「都落ち」:朝川渡るなのに、「海」なのははぜ?
まず、都落ちの記事を書いた後に気づいたことです。
これは何かというと、オリジナルである、万葉集第2巻116番の歌では「朝川渡る」と書いてあり、別れのタイミングが朝の時間という風にされてます。
もちろん、実際に朝に別れをしたわけではなく、創作世界上の話ではありますが。
しかし、ヨルシカの「都落ち」では、川ではなく海の話ばかり出てきました。楽曲「都落ち」は返歌であるという立場を僕はとってますので、そこがかなり気になってました。
というのも、幻燈レビューは歌詞の深堀りはあまりしていないんですね。どちらかというとモチーフとなっている原作の解釈・分析に文字を多く費やしたからです。
あと、他のブログやらなんやらで歌詞を細かく書いている人がいて、そこと同じようなことしても価値がないように思えたからですね。
さて、それではなんで「海」なのかを考えたりしてみましたが、そこであったのは離別の表現でした。
川を渡るというのは「移動」意味が強いかと思いますが、海を渡るでは、「今生の別れ」の意味合いがあるみたいです。
今はフェリーとかあるので安全ですが、当時は船というよりも舟で海を渡っていたので、事故によって命を落としたりしかねないし、危険度も高いかと。
だから、「島流し」とかは時代が違うかもしれませんが、古代の日本では海を渡って島に流されることは「死」を意味し、永遠に会えないというニュアンスが込められている、のかなあと思いました。
もしそのニュアンスであれば、万葉集第2巻116番は分かれとはいえ、いったい再び会えるのか、もう会えないのかなとニュアンスである一方、楽曲「都落ち」ではもう今世では会えないことは確定で、あの人は次第に自分の記憶を忘れていく、消滅していくというくらいの重さがあるかなと思いました。
「ブレーメン」:楽曲「ルバート」との関係性を忘れてた
はい、次は「ブレーメン」がらみのことです。
「ルバート」です。
「幻燈」レビューではまだ入れ込むのは早くて違うと思い、「ルバート」というアナログレコードの楽曲との関連は書きませんでした。
結構前だったから思いだしてみます。何って考えてたから。YOUTUBERさんの考察会にお邪魔した際、あれこれ考えてました。
自分はルバートであって、オケがないと存在できない、ということかなあ。
— どどり@musicblogger (@eMmq709ZuLaOvEf) July 4, 2024
→ 頭でするとやはり計算的で自然でなくなってしまう。。😊
— 早川奈穂子🍊Pianist…♪*゚ (@naoko_pianist) May 16, 2024
なので左手は拍通り(オケ)、右手はルバートは、歌手の様な息と想い(情熱)の流れでするものであり。。ピアノソロ曲はそれを1人でする🌱右手と左手を別人格で😊
故にその学びは、コンスタントな声楽伴奏の経験が一番良いと感じます。
これです。
確かこれを独りで納得してました。
ルバートの意味をいくら調べたってそこに答えはなかったんですね。
この右手と左手とでは別人格でピアノの鍵盤を演奏する、左手は拍(ビート)を鳴らし、右手はテンポをゆっくりしたり、速くしたりすることで感情を表現する、という解釈ができると思ったんですね。
ブレーメンの解釈は二人でたのしくマーチしているような姿をイメージしていました。
それは、物語的にいうと、エイミー方面からの視点かなと。
そして、それを踏まえてエルマが返歌をしていると捉えられる曲が「ルバート」になりますが、
エイミーが拍をならしている(鳴らしていると頭のなかで思っている)、
エルマはそれを踏まえて情熱的に演奏をしているというように、
二人で演奏しているイメージが浮かびました。
そして、この関係性から、
「ルバート」の楽曲観点からは、「ブレーメンで、二人一緒に行こう」としておくところですが、
その返しの「ルバート」の意味としては、
「自分はルバートであるから、拍であるエイミーの存在がないといけない」
という文字にならないニュアンスがあるのかなと思いました。
「幻燈」の絵について。
まずは、アルバム「幻燈」のジャケット絵についてです。
(幻燈の特設サイトより)
https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/gentou
「幻燈」の絵は葡萄をとる女性のような姿をしています。実際はランタンです。
あくまで背丈よりも高い位置になっているのは、近年の日本での葡萄栽培の仕方であって、ヨーロッパなどでは背丈よりも低いところでなっているのでした。
たしか漫画で見たことがあります。「もやしもん」といって、酵母、菌をテーマとした内容の漫画です。
そのなかでワイン造りの話があり、そのときにみた葡萄畑はたしかに低い位置でした。
ブルゴーニュとかよくわかりませんが、とりあえず葡萄狩りではないようですね。
次に思いついたのは、「イカ釣り漁船」です。漁船の上部にランタンを吊り、その光に集まったイカを獲る手法です。
https://nrife.fra.affrc.go.jp/seika/ikaturigaido/927dai1syouledgaido.pdf
こちらの資料をネットで見つけてみましたが、今までの思い込みは勘違いだったようでした。
というのも、イカは確かに光に集まってきますが、漁船のすぐ近くに来て、明るいところを求めているわけではなく、明るい漁船近くの場所、さらに「船影」、つまり船の下に集まるようです。
船の下は明るいわけではなく、適度な暗さというのでしょうか。
そこにイカが好んで集まってくるため、イカを獲るのはそこを狙うようです。
ここから思ったのは、
「光」というものに集まってきた人は、光のすぐ近くではあるものの、暗さを求めている,
ということ。
もしこれをヨルシカの「幻燈」に喩えてみると、幻燈の楽曲という光に集まってくる人たちは、楽曲に直接触れるよりも、楽曲の近くであり、船の下、ここではヨルシカというアーティストのそばに好んで集まっていることを表現している、とか思えたりするなあと思いました。
もちろんかなり大雑把ですが、そういう考え方もできそうかなと。ある意味風刺になるかもしれませんね。
そして、幻燈についてですが、このランタンはいったいなんの比喩なんだろうと考えます。
さっきはこの光は楽曲と喩えましたが、もう少し考えてみましょう。
「第一夜」の絵画から考えてみます。(絵の画像はありません。)
中央に女性がいる絵です。その女性が白百合のように大きく描かれて描かれているので、女性自身が白百合へと変わった、または重なったと解釈ができそうです。
ただ、ここで気になったのが、女性そのものにもオレンジ色、黄色のランタンの光を表現する色が使われています。
本来、女性自体を目立たせるという意味を込めることもできますが、それにしても女性自体が光っているように思えました。
(下の海面を表現する色使いからみても)
ですので、ここでは、女性自体が「ランタン」になっていると喩えてみます。
この女性がランタンになっていることから考えられるのは、ランタンの形状に意味があるわけではなく、ランタンを比喩とした光の発生源が女性であると考えます。
となると、以前から考えていた説ができます。
「ランタン」イコール「因果交流電燈」とみなす考え方です。
それでは、因果交流電燈とはそもそも何か。交流電燈についてはこんな記事がありました。
因果交流電燈とは一般的な言葉ではなく、宮沢賢治の詩「春と修羅」に出てくる言葉です。普通な「因果」といった単語はつきません。
そして、わかりません。
だから、「幻燈」の前回レビューと同様に、宮沢賢治についての論文記事を読むことで、理解を深めようとしてみました。
これを読んでも、まだ上手く理解できません。
なので、
「春と修羅」そのものを読んで理解しようと思いました。
春と修羅を読んでみました。
もちろん、ネットで読める、「あおぞら文庫」でも文章は読めます。
ただ、こういった詩といったものは、
行間の開け方、改行の仕方、文と文のスペース感覚にすべて意図があり、
芸術的に魅せようとするものがあると思ってますので、
あくまで紙ベースで読もうとしてみました。
これを読んだ後、どんな文章を書こうかなと思っていましたが、
これまたしっかりと表現してある動画(YOUTUBEです)があります。
因果交流電燈を簡単にいいますと、いわば人間だけでなく生き物の命を比喩したものです。
動画にもありますように、電燈はずっと点灯しているように見えますが、
じつは目では見えないぐらいの速さで点滅をしており、
一つの命は点いたと思っていたらすぐに消えていってしまう、
そんなあっという間な時間を繰り返し続けている。
だから、人間の人生も、神的な視点や宇宙的視点からは瞬く間に始まり、
すぐ終わっているのを繰り返し続けているということです。
この因果交流電燈の「点滅」または「明滅」が、仏教思想でいう「輪廻転生」であると言われてます。
ヨルシカのテーマとして、この「輪廻転生」を繰り返す物語として描かれています。
そう思うと、エルマとエイミーの物語、盗作の物語というものも、
僕らにとっては短くない人生を描いているものに思えますが、
大きな視点だと一瞬にもなっていないということだなと思いました。
その大きな視点と言ったら、これまた漫画を出してしまいますが、「鋼の錬金術師」。
この中にあるテーマとして、「全は一、一は全」といったワードっていう視点がまさにここと同じだなと捉えました。
ただ、
この「春と修羅」を読んだことが大きかったです。
つまりこの文章以降にて、宮沢賢治とヨルシカのつながりというものが「核」であったことと判断して、
あれこれ文章を書き、考察し、出来上がったものです。
因果交流電燈よりも、
そもそも、視点を宮沢賢治という作家に焦点を当てないといけなかった、と思います。
方針変更:ここからヨルシカと宮沢賢治とのつながりを『徹底考察』
https://t.co/aoiiGBvqcE
— どどり@musicblogger (@eMmq709ZuLaOvEf) May 13, 2025
この記事はすごすぎる。
宮沢賢治がベートーヴェン没後100周年コンサートを没後99周年のタイミングに開催した意味の考察もあって、なにかを彷彿させるというか、なんだか凄いなあと。…
このXのポストをしたときには、
ヨルシカと宮沢賢治のつながりを、
ただ楽曲のモチーフになった作家としてではなくもっと深く考察しないといけないな
と思いました。
それはつまり、次のことです。
〈方向性〉
・このアルバム「幻燈」自体は、いろいろな作家様の作品をモチーフにしてますが、
根本的にあるのは「宮沢賢治」であること。
・宮沢賢治の作品のうち、
「春と修羅」という作品になんかしらの意図があり、ヨルシカはそこを見ていること。
〈理由〉
①幻燈のジャケット絵は、「春と修羅」の中にあった情景に思える詩がありました。
②「春と修羅」をはじめ、宮澤賢治作品には、「幻燈」というワードが沢山出てきます。
③宮沢賢治の思想は、仏教思想の色がかなり色濃い。
④ヨルシカにおける「月光」という言葉や実際の月の光が楽曲およびストーリーを彩ってますが、宮沢賢治も月光というものが大好きで、かつ月光ソナタを生み出したベートーヴェンが大好きです。
考えてみましょう。
・
・・
・・・
上でも書きましたが、改めて深堀します。
これについては、
「春と修羅」の第二集を読んでいると、これかなと思うものがありました。
三五〇 図案下書
高原の上から地平線まで
あおあおとそらはぬぐわれ
ごりごり黒い樹の骨傘は
そこいっぱいに
藍燈と瓔珞を吊る
引用:宮沢賢治コレクション7 春と修羅 第二集ー詩Ⅱ P243
この詩はまだ後に続きますが、この冒頭部分がまさにと思いました。
すごくイメージするのは難しいと思いましたが、
ここでAIに力を貸してもらい、この冒頭部分の詩からイメージできる画像を生成してもらうようにします。
まず、
chatGPTだとこちらの画像が生成されました。
(この画像、のちほども分かりますが、6個のランタンであることにびっくりしました。そんなことあるかなあ。)
次に、
Copilotだとこうなりました。
テキストからの画像生成ですが、雰囲気と全体の感じが似ているように思います。
それを考えると、このような情景を踏まえて、あくまでオリジナルな幻燈のジャケットの絵を描かれたのかなと推測しました。
作者である加藤隆さんのXではこのようにポストされてました。
「幻燈」という言葉は、宮沢賢治の「やまなし」の冒頭から拝借しています。
— Ryu Kato 加藤隆 (@ryukatoo) January 24, 2023
「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という文章から物語は始まります。
物語の世界に誘う、語り部の言葉という意味で、今回のヨルシカの音楽画集にピッタリと思いました。
表紙絵はこんな感じになります。 pic.twitter.com/i66eHxpyVq
宮沢賢治の「やまなし」における「青い幻燈」を踏まえられているということはここからわかります。
ただ、「やまなし」は二匹のカニのお話で、そこからこの絵の情景は導きだせません。
だから、オリジナルかなと思ってましたが、「春と修羅」のこの部分があるので、この線もあるかなと思ってます。
あと、この言葉のなかでよくわからないものとして、「藍燈」と「瓔珞」とあります。
これはなにか。
これは要は、「仏具」といわれてます。
仏教における飾りといっていいでしょうか。
まず、藍燈です。
検索しても出てきませんが、純粋に「藍(深い青色)」の「燈(明かり)」と認識できますが
、注目するのはこの言葉の読み方です。
「あいとう」ではなく、「らんとう」と読みます。
これは、「ランタン」の当て字として使われているんですね。
かつ、「青い色」をしている「ランタン」なんですね。
それがまず一つです。
つぎに、瓔珞です。
「ようらく」と読みます。
瓔珞はより一層、仏教色の強いものになります。
この参考リンクを観てください。
お仏壇で上から吊り下がっている、
金色のものです。
この瓔珞の名前が付いた「瓔珞百合」という花もあります。
このように、瓔珞と聞くと、上から吊り下げてある、というイメージです。
だから、幻燈ジャケットの絵は純粋な瓔珞百合ではないにしろ、
あきらかに瓔珞のような吊り下げ方をしている、花を吊るしてます。
この絵を見て、最初は「スワッグ」だと思いました。
しかし、なぜ、スワッグなのか、ただお洒落なインテリアとして描いたのかともんもんと考えてましたが、
この「春と修羅 第二集」のこの詩を読んだときに容易にイメージができたんですね。
そういった要素を調べて、考えていくとこの詩からのイメージと女性がランタンを吊っているジャケット絵の情景とが重なってきました。
純粋なオリジナルであるかもしれないので、そこは失礼に当たらないようにしないといけないと思いますが、
僕はあれこれ調べていてここまで行きつきました。
はい、次ですね。
「幻燈」というワードについてです。
先にもでました、加藤隆さんのXのポストでも出ていますが、
あれはあくまで「やまなし」という童話の中で出てきた言葉です。
「春と修羅」でも「幻燈」という言葉が出てきます。
しかし、そもそも「幻燈」とはなにか、ということですね。
幻燈というよりも幻灯というものはそもそも映写機みたいなものがあるようです。
こんなのはネットで検索したら出てきますが、
「写真フィルム・図版・実物などに強い光を当てて、レンズで幕などに拡大映像を投影してみせるもの。スライド。」
とのことでした。
それを考えると、今回は絵画が多数用意されておりますので、強い光、つまりヨルシカの世界観に落とし込むと、
絵画に「月光」を当てることによって投影して見せるというニュアンスにも考えられるのかなと。
しかし、どうでしょうかね。
今回の「幻燈」というアルバムにおいて、
この「幻燈」の意味合いを考えていたところ、おおもとの画集である「幻燈」を見てみました。
そこで気づいたことは、そういえば、画集のページをめくってすぐのところに「序文」ってあります。
なんだかいつも通り、序文があってまずここから説明をしているのか、
この画集の楽しみ方や音楽の聴き方の変遷などを文章で書いてあるは丁寧だなと思ってました。
しかし、それは幻燈のみを聴いて、読んだ時点の僕です。
宮沢賢治の「春と修羅」、そして「注文の多い料理店」の込み入った情報を知る以前の状態です。
この序文っていうのは、オマージュだと思いました。
この序文を作ることは、「春と修羅」そして「中温の多い料理店」の作品において、
序文を書いた宮沢賢治と同じように、この「幻燈」を始めさせようとしたのかと思います。
「春と修羅」の序文は、いろいろな文庫に掲載されているので、読んだ方は多いと思います。
一方、「注文の多い料理店」の序文はよっぽどでない限り、目にすることはないと思います。
参考のURLを2つほど貼っておきます。
さて、この「幻燈」の序文で書いてあることは、
音楽の聴き方の変遷、NFTといった技術がある現在で、データである楽曲のオリジナル性について書き表してありました。
その内容も興味深いものでしたが、この序文から考えることはなにかなと考えてみました。
なぜ、「幻燈」であるかということを考えた際に、
宮澤賢治作品の「雪渡り」を読んでみたことが思いだされました。
「雪渡り」では幻燈会というものを狐が開催して、子ぎつねたちと一緒に人間の子供がそれを楽しむ様子が描かれてました。
幻燈会では絵にランタンからの光を当て、白い幕に絵を映し出すような魅せ方、楽しみ方をしてました。
要は、
「絵」を、ランタンなどの光を用いた「幻燈機」を使うことにより、一層拡大された「投影画像」を楽しむ
こういった形です。
その比喩を考えてみると、今回の取り組みでは、ランタンの代わりに、スマホを使ったAR技術を使用しました。
つまり、
「絵」を、AR技術が使用できる「スマホ」を使うことにより、「音楽」を再生して楽しむ
こういった構図であるとも考えるなあと思いました。
両方とも、起点は「絵」、「絵画」であり、それを変容させることで別の楽しみ方ができる。
かつ、ただ「絵」を見ただけでは味わえないような感動が得られると思います。
幻燈会について調べてみましたが、幻燈機によって映し出されるものをみたときに、皆それぞれ大いに感動した、
そういう技術であったと書かれてました。
「絵」を直接楽しんでいるわけではなく、
「絵」から派生した、いわば創作物に近いようなものを生み出すという点では、
幻燈機とスマホは同じ意味合いを持つということになるのかな。
また、
こういうものもありました。
面白いなあ。
幻燈機の比喩がスマホか。
— どどり@musicblogger (@eMmq709ZuLaOvEf) June 7, 2025
ヨルシカの楽曲世界、つまり世界観において、なぜか自然のように思われている言葉があります。
「輪廻転生」という言葉です。
この言葉は当然ですが、日常生活で使うことはありません。
そもそも輪廻転生は仏教思想からのものであって、どちらかというと精神世界のほうに使い考え方です。
それがヨルシカにおいてよく見られます。
ヨルシカだけでなく、アルバム「月を歩いている」も同様かなと僕は思ってます。
輪廻転生の言葉を調べてみましょう。
参考に読んでいただくサイト様を貼らせていただきます。
かなり詳しく、多面的に記載されてあり、勉強になりました。
この輪廻転生のうち、気になったのは、「六道」の考え方です。
こちらの動画も参考です。
というのも、ヨルシカではなく宮沢賢治の方に関係するものが思い当たりました。
まさに「春と修羅」のことです。この修羅というのは「修羅道」を意味しています。
宮沢賢治は仏教のなかでも日蓮宗を信仰していて、その後は宗教というよりも法華経の考え方、世界観に惹かれていったとされてます。
そのため、「春と修羅」では、自らがいる世界を修羅の世界として、詩を書いていたということです。
そして、「六道」のことを調べていて気付きましたが、
ヨルシカのストーリーに今のところ当てはまっていることが多く感じられました。
それは、
輪廻転生ルールに従った六道
・天上道 なし (⇒次のアルバム?)
・人間道 エイミーが最初にいた世界
・修羅道 AL「幻燈」における「夏の肖像」
・畜生道 AL「幻燈」における「踊る動物」、「月と猫のダンス」
・餓鬼道 AL「盗作」で、作曲家であった男がいた世界
・地獄道 なし (⇒次のアルバム?)
このようなかたちとなります。
輪廻転生の枠組みの中では、死後にどの世界にいくのかは前世の行いによるとされてます。
ネットで調べながら意味を考えてみます。こちらのサイトを参考に文を作ってみます。
まず、エイミーとエルマの物語があり、そこが起点となる。そのところは、「人間道」とします。
苦しみもあり楽しみもある世界のことである一方、
「仏の教えに出会い、修行によって解脱を目指すことができる唯一の貴重な境遇」とあるので、
ここで何かをしたらより悪い世界へいくこととなる。
エイミーの場合、みずから命を絶っていますので、
おそらく悪い行いだったとみなされて別の下の世界に行ったのではないのかなと思います。
そして、次は、「盗作」の世界である「餓鬼道」です。
餓鬼道は、「飢えや渇きに苦しむ」ような意味があるようです。
少し、「盗作」の歌詞を振り返ってみましょう。
AL「盗作」の楽曲から、「飢え」や「渇き」、「妬み」、「苦しみ」のようなワードは?
1,昼鳶
「骨の髄まで全部妬ましい」
「妬む脳裏は舌打ちばかり」
「君の全部妬ましい」
「この渇きを言い訳にさぁ」
「この妬みは疎ましいばかり」
2,春ひさぎ
「無粋な蜻蛉の一つでもいいから、溺れるほどに欲しい」
3,爆弾魔
「辛くてもいい 苦しさも全部僕のものだ わかってるんだ」
4,レプリカント
「満たされるならそれで良かった」
5,花人局
「言葉だけをずっと待っている」
「夕焼けをじっと待っている」
6,盗作
「この歌が僕の物になれば、この穴は埋まるだろうか」
「嗚呼、まだ足りない。全部足りない。何一つ満たされない。~」
「嗚呼、何かが足りない。これだけ盗んだのに少しも満たされない~」
「嗚呼、まだ足りない。もっと書きたい。~」
「まだ足りない。まだ足りない。~」
7,思想犯
「何もしなくても叶えよ、早く、僕を満たしてくれ」
「他人に優しい世間にこの妬みがわかるものか」
「いつしか喉が潤う」
8,逃亡
なし
9,夜行
なし
10、花に亡霊
「言葉をもっと教えて」
という感じでした。あながちずれているとはいえないような、いえるような。
枯渇感、妬みなどが後半3曲以外には込められているように捉えました。
この盗作につながらうものとして、EP「創作」がありますがここでは控えます。
また、動画を観た際に、「餓鬼道」に来るきっかけとなるのは、
「生前、嫉妬深くて強欲だった者が転生する」との解説がされていました。
AL「だから僕は音楽をやめた」を振り返ってみますと、
といったワードはありますが、
確か初回限定盤の手紙の中にも「強欲」というワードがあったような気がします。
だから、
強欲であり、かつ嫉妬深い点から「餓鬼道」へ転生した、
ということになるのかなと。
(強欲といっても、音楽にたいしての強欲さをいっているかな。)
「餓鬼道」がおわりましたら、次はAL「幻燈」にいきます。
AL「幻燈」はどんな位置づけかなと考えてました。
というのも、アルバム全体に明確な物語があるというならば「第一夜」のMV、といってしまうこともできますが、
その「第一夜」のMVと絵画それぞれの物語がつながっているとはいえないからです。
それでどうかなと考えていたところ、宮沢賢治と重なったように思いました。
宮沢賢治については、作品の物語がとても有名で、それこそ小学生のときの自分でも知ってました。
だから、現在の小学生、もしくは保育園児でも知っているとは思います。
しかし、宮沢賢治の歴史といいますか、人生はよく知らなかったんです。
ただ、生活をしていて、その生活に従って作品が生み出されたとしか思ってなかったんですね。
「雨ニモ負ケズ」を書いた人だから、農業をしている田舎の人かなという人物像でした。
宮沢賢治には、宮沢トシさんというかなりの秀才であった妹がいたことを最近知りました。
トシさんは宮沢賢治の理解者であり、宮澤賢治もトシさんのことを大切に思っていたようです。
それが作品として残されています。
それが、「春と修羅」の中にあります。
そして、この動画を観ていただいたら分かりやすいです。
そして、こちらの方の記事もみてください。
『トシ三部作』といわれている、
宮沢賢治の詩があります。
「トシ三部作」
① 永訣の朝 (えいけつのあさ)
② 松の針 (まつのはり)
③ 無声慟哭 (むせいどうこく)
この三作品は「春と修羅」の中に入っており、
トシの最期の場面を詩として残しているものとなっています。
それぐらい、最愛の妹を亡くした宮澤賢治の無念さが表現されていると解釈できます。
そして、その後の行動が気になり、調べました。
そのまま元通りの生活に戻っていったわけではないです。
また、動画にもありましたように、
トシさんの逝去後、
宮沢賢治は旅に出ており、
「春と修羅」に入る三つの作品を作ります。
トシ逝去後の旅にて
①青森挽歌 (あおもりばんか)
②宗谷挽歌 (そうやばんか)
③オホーツク挽歌
トシの魂のありかを求め、岩手から青森へゆき、青森から宗谷、宗谷から樺太への旅をします。
宗谷とは、北海道北部に位置する場所で、宗谷海峡とあるように、北海道から樺太に行く海峡の名前がついてます。
そして、オホーツクはオホーツク海といったら耳なじみがあると思いますが、
樺太の北から東の海がオホーツク海となります。
1905年に北緯50度以下を日露戦争によってロシアからもらっていたため、
実際のオホーツクの街(オホーツクの街は大陸にあります)ではなく、
樺太にいって、そこのオホーツク海岸まで旅をしていると考えられます。
この記事に書いてあることで、僕は本当に震えた部分があります。
引用
”私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。”
『オホーツク行という「実験」 』https://ihatov.cc/blog/archives/2015/04/post_824.htm より引用
僕のブログ記事を読んだことがある方はすくないと思いますので説明しますが、
「月光再演 補足レビュー」という記事を書いたときに、まったく同じ結論に至りました。
この記事においては、「ノーチラス」の楽曲の異質性を指摘し、
エイミーの旅を模倣をし、さいごには、エイミーと同じように辞世の句と同義である『だから僕は音楽をやめた』という楽曲を書いたのち、同じように命を絶つ予定だったのではないかということを書きました。
そして予定を変えたのが、現地に残っていた、ギターケースの中にある「ノーチラス」の詩であり楽曲だったと考察しました。
そのため、同じに思えるんですね。
宮沢賢治が宮沢トシの魂を追って樺太までゆく旅と、
エルマがエイミーの痕跡を追ってスゥエーデン、そしてゴットランド島までゆく旅とは、
まさに重なります。
確かに、予定であったとはいいきれませんが、
あの「エルマ」というアルバムの全体の雰囲気、つまりエルマの日記を読んで、想像すればどんな雰囲気なのかは理解できるかなと思います。
そして、僕が手書きしたもののところに赤ペンで書いている部分があります。
「オホーツク海岸での仮眠」
ここについても、あらためて引用をさせていただきます。
引用
”私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。”
『オホーツク行という「実験」 』https://ihatov.cc/blog/archives/2015/04/post_824.htm より引用
この部分も、ヨルシカにおけるゴットランド島の浜辺にある桟橋と重なります。
これについては、「サガレンと八月」の物語を言及されてます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45658_35909.html
この物語の解釈は難しいですが、この栄浜の地を踏まえてかかれた作品であるとされているので、かなり意味は重いです。
話は戻ります。
「幻燈」が六道のどれに該当するのかですが、この宮沢賢治の部分と重なるとすると人間道と思えますが、エイミーの視点からでしたら、「修羅道」に当たると思います。
AL「エルマ」のエルマ視点からでしたら、エルマの旅は修羅道にあたりますが、
この六道の輪廻転生は主にエイミー視点で進められています。
だから、エイミーの視点というと、AL「幻燈」における第一部「夏の肖像」部分がエイミーの視点であり、画家の視点です。
のちほど語る第二部「踊る動物」は書いている画家はエルマの視点であることはライブ「月と猫のダンス」で理解できます。
それならば、少しエイミーの視点を整理するとこうなります。
エイミーの視点
①第一部「夏の肖像」 ⇒ 文学作品をモチーフとした画家の視点
②第二部「踊る動物」 ⇒ ライブ「月と猫のダンス」の生き物の視点
そのため、AL「幻燈」という一つの作品の中では、二つの世界が形成されていると考えてます。
それにしたがうと、まず第一部は画家の視点ですが、
画家がなぜか記憶に残っている女性の姿を想像し、絵で表現しようとしていると考えます。
実際に女性と別れた後の画家が未練を残して絵画で表現していると考えることもできそうですが、
正直むずかしくてわかりません。
ただ、ここでは画家である男が女性と別れることになり、その後でも絵画の中に女性を残して、
絵画の中に自分を入り込ませたいという姿が「第一夜」のMVでも描かれてます。
その点を踏まえると、「修羅道」に当たるかと思いました。
「修羅道」の言葉は、「春と修羅」において、宮沢賢治自身が自分のことを「修羅」と表現していることからも考えました。
なぜなら、「春と修羅」自体が宮沢トシさんの死後に描かれており、かつその作品自体に宮沢トシさんの面影を追うといった、先ほど挙げた作品が入れ込まれているからです。
その姿が第一部「夏の肖像」の画家の姿と重なったと僕は思いました。
そんな理由です。
次は、ライブ「月と猫のダンス」における視点ですが、さきほど書いたように「畜生道」です。
これは「動物に成り代わっているから」という理由が本当に一番の理由でした。
というのも、この記事を書くとなった場合に、「踊る動物」の動物は何を表しているのかをすごく考えて、探しました。
宮澤賢治の作品に出てくる動物なのか、はたまた有名な文学作品の作家を表現したものかなどを調べました。
特に、「カナリア」とつながるものがまったくありませんでした。
ほかの物は割と説明がつきました。
「フクロウ」は、なんだか宮沢賢治を表しているような気がしていました。
しかし、結局は何もつながらずに悶々としていましたが、
宮沢賢治を調べ、
派生して法華経を調べていった際に、
輪廻転生の六道輪廻について調べた結果、
「動物ならいいということか!?」
という考えに行きつきました。
ということで、「畜生道」となりました。
ただ、おそらく「畜生道」とはいえ、何回も転生していることから、
何度も何度も何度も何度も死に戻りを繰り返したのか、はたまた乗り移っているのか。
そればっかりは謎です。
ここからはまったく分かりませんが、今気になっているのは、
「天上道」
の方です。
というのも、幻燈の全後の楽曲をピックアップすると、
・テレパス
・斜陽
・月光浴
・晴る
・(ルバート)
・忘れてください
・アポリア
・太陽
・へび
・火星人
となってますが、このうちの楽曲においては、太陽であったり、天体にかかっていたりしてます。
また、天上道の説明としては、
これはあれこれ考えてみましたが、まだまだ材料がすくないので保留にします。
だから、次のアルバムは、天上道っぽいかなぐらいに思ってます。
地獄道はどんな形で出るかは分かりません。
ヨルシカのストーリーを六道輪廻に置き換えると、
— どどり@musicblogger (@eMmq709ZuLaOvEf) June 8, 2025
①人間道…エイミーがいた世界
↓
②餓鬼道…AL「盗作」の音楽の盗作をする男がいた世界
↓
③修羅道…AL「幻燈」の「夏の肖像」の各絵画世界
↓
④畜生道…AL「幻燈」の「踊る動物」を表現したLive「月と猫のダンス」の世界
↓…
宮沢賢治とベートーヴェンとが、一体どうヨルシカと関係しているかについてです。
こちらの記事を読んでみてください。
この記事からわかるように、宮沢賢治がベートーヴェンを敬愛をしていることから、ベートーヴェンの没後99年のタイミングで百年祭を賢治が行いました。
この記事からは、
没後99年にあたる年の1926年3月24日に、
在籍していた農学校の教職を辞めて新しい生活を迎えるその直前に、
ほかの人、つまり生徒とともにベートーヴェンを味わい広めるというレコードコンサートを開催したことが分かります。
自前のレコードコレクションを持ち込み、ベートーヴェンの良さを伝えようとし、最後には涙を流したと記事には書かれてます。
また、没後100年のタイミングではなく、あくまで100回忌であること(初年を1年とカウントする)の指摘もあり、僕はすごく納得をいたしました。
もちろん、その後も、精力的に農業をしながら他者に対しての活動がされて行きました。
つまり、こんな感じです。
〈宮沢賢治がおこなったこと〉
没後99年のタイミングで、農学校でベートーヴェンのレコードコンサートを行った。
(その後に「羅須地人協会」を開設し、「農民芸術概論」に沿った活動を始めた。)
それではもし、
この事実(宮沢賢治は100年の節目をお祝い、また100回忌をすること)をヨルシカが知っており、
それを踏襲するとしたらどうなるのでしょうか。
ヨルシカが行ったことをまとめてみます。
アルバム「幻燈」をリリース。(2023年4月5日)
宮澤賢治の初の詩集「春と修羅」の出版がいつだったかを調べてみると、なんと1924年4月20日です。
そのため、「春と修羅」出版から99年目は、2023年4月20日となります。
わかりますでしょうか。
ヨルシカのアルバム「幻燈」はなぜか、
このちょうど99年目に当たるまさに2023年4月5日にリリースされています。
偶然でしょうか。
まさに99年目に当たるタイミングで、
宮沢賢治作品に出てくる言葉「幻燈」を付けたアルバムをリリースすること。
ちなみに、
宮澤賢治のことをSNSで検索をして調べていましたが、
やはり「春と修羅」出版100年目にあたる前年などから、
敬愛する方、ファンの方々は意識をして、あれこれ賑わってました。
ちなみに、ヨルシカをよく聴くリスナー、僕も含め、一切知りませんでした。
ライブツアー「月と猫のダンス」を開催。(2023年4月~6月)
次です。
アルバム「幻燈」に沿ったライブツアー「月と猫のダンス」が2023年4月15日から6月24日の間に開催されました。
そして、このライブツアーの初演の場所、
どこかご存じでしょうか。
ここです。
「仙台サンプラザホール」
初演の会場である「仙台サンプラザホール」は東北最大のコンサートホールとされています。
東北地方最大の会場は、アリーナ形式であるセキスイハイムスーパーアリーナですが、
ライブツアー「月と猫のダンス」の形式は演劇であるため、
あえてこのアリーナを選ばなかったのでしょう。
その日付も4月20日の数日前である、4月15日、4月16日としています。
なぜ、東名阪ではなく、仙台の地から始めたのでしょうか。
過去を調べてみると、
アルバムツアー「盗作」の際には北海道からはじまり、
その後仙台サンプラザホールに来てました。
なぜ今回は最初に仙台があり、5月に入ってから北海道が来たのでしょうか。
その後のライブ「前世」ではそもそも仙台が会場にはなってません。
これを考えると、東北地方最大のコンサート会場であることに意味があり、
宮沢賢治の地である「岩手県」に近いことを考えていたのかなと考えてしまいます。
もしかすると、
ライブの合間またはライブ後に岩手県へ行ったりしているかもしれませんね。
ライブ「月と猫のダンス 追加公演」を開催。(2024年4月6日、4月7日)
そして次です。
「春と修羅」の出版からちょうど100年目がつまり、
2024年4月20日です。
まさに、百年です。
この出版100年のお祝いのタイミングで、
なぜかこの4月に急遽、「月と猫のダンス 追加公演」として東京有明アリーナで開催されました。
これは、2024年4月6日と7日のツーデイズでのもので、東京のみのライブとなりました。
振り返ってみると、このライブ映像がのちに発売されるライブDVDとして発売されましたので、その一般向けへの発売、そしてYOUTUBEへの無料公開を見越してのライブだといえます。
対外的には、「アルバム発売からちょうど1年後に、ブラッシュアップしたライブをします」ということは確かに分かりますが、
なぜそれがちょうど100年目のこのタイミングにピッタリ合うのでしょうか。
これは、意図かなと思います。
個人的な意見としてはやはり、
エイミーとエルマの物語の根本には「春と修羅」があるから、と推測します。
しかも、この組み方は、何年も前から決めてスケジュールを立てているようなぐらい綺麗な日どりがされています。
ちなみに、「月と猫のダンス 追加公演」のDVDの発売日は、2024年9月18日となっており、
宮澤賢治の命日である9月21日がある週の水曜日です。
(リリースなどは大体、水曜日にあります。)
この流れを踏襲した場合、
アルバム「幻燈」関連だけではなく、ヨルシカの活動において反映している部分を推測できるようになります。
ここまで書いたのは、宮沢賢治の「春と修羅」出版からの100年でした。
しかし、宮沢賢治がお祝いしたとされるのは、「ベートーヴェンの没後100年」です。
つまり、
ヨルシカも宮沢賢治にならって、
ベートーヴェンの没後の周年を意識している、と考えるとどうなるか?
ベートーヴェンが亡くなったのは、1827年3月27日です。
それを受けて、
ベートーヴェンを敬愛する宮沢賢治が100周年レコードコンサートを1926年3月24日 (約99年目)に行ってます。
となると、
ヨルシカが取りうると予測できる行動時期は、
二つです。
★2026年3月27日付近 (没後199年目)
⇒なにかを発表する? アルバムなどの作品がリリースされる?
★2027年3月27日付近 (没後200年目)
⇒なにかを発表する? 月光に関するエイミーとエルマの物語が終わる?
このうち、既に決まっていることは、
アルバム「幻燈」のストリーミング期間とダウンロード可能期間です。
「幻燈」のストリーミング期間は2026年3月31日に終了し、
その後に三か月は楽曲のダウンロードができる期間が始まるとされています。
ちょうど2026年3月27日付近となっているのは、
まあ4月の初めにアルバム「幻燈」を出したからといってしまえばそれまでですが。
2027年3月27日の方はまだ先のことなので、より一層予測しづらいと思いますが、
「月光」をテーマにいれている時点でベートーヴェンを間接的にも尊敬をしているとすると、
ここを逃すと300年後になります。
ただ、このタイミングはまさに一生に一回の機会とはいえますね。
それが、実はもうまもなく来るということ。
一時期、ヨルシカの休止時期がなんやらSNSを賑わしていたこともあって、
「へー」と立場でしたが、今回のことを踏まえると、計画しているようにも思えてしまうなあと。
何事も、「終わり」って大切ですからね。
あと、念のため、宮沢賢治の作品で100年といえば、「疾中」という作品にもありましたので、記載いたします。
〔まどろみ過ぐる百年は〕 「疾中」
まどろみ過ぐる百年は
醒めての時といづかたぞ
いまわれやみてわがいのち
いつともしらぬ今日なれば
最後に
長々と書いてきましたが、以上となります。
全体を見渡せば、宮沢賢治色が強く出たレビューとなりました。
「月と猫のダンス」のライブ映像も見返したうえでしたので、
また思いついたときに追記しておくかもしれません。
ありがとうございました。
どどり
(補足)
なんと、
ライブ「盗作 再演」が発表されました。
ヨルシカ LIVE TOUR 2025「盗作 再演」開催いたします。
— ヨルシカ(n-buna、suis) / Official (@nbuna_staff) June 10, 2025
9月6日(土)~9月7日(日)兵庫・GLION ARENA KOBE
9月20日(土)~21日(日)愛知・IG ARENA
9月30日(火)~10月1日(水)神奈川・K-Arena Yokohama
本ツアーは各会場にて、
・初日公演:立ち見・着席どちらでの観覧OK(一部指定席を除く)… pic.twitter.com/J4hAVy61sB
僕はライブ「盗作」を観たことがないので、
ぜひ観たいなあと、申し込みはしておきました。
当たればいいなあ。
もちろん、
申込日は、
何かありそうと予想していた通りでしたので、
一択でした。
9月21日。
あとは、運だなあ。
ありがとうございました。